2019年06月01日10:00
浜岡原発永久停止裁判 第25回口頭弁論 概要≫
カテゴリー │口頭弁論
2019年2月4日(金)
●原告から準備書面(27)を提出。塩沢弁護士が陳述を行った。
★準備書面(27)の概要についての説明。
最近、裁判所の内部で福島原発事故の風化の危惧を抱かざるを得ない司法判断が続いている。そこで原告らは改めて福島原発事故後の司法の在り方を問い質す。
合わせて、最近の司法判断が「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」等々、原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”として盛んに持ち出す「社会通念」に関連させ、「3・11福島原発事故後に求められている原発の安全性の程度・レベルをどう捉えるべきか」を論じた上で、その安全性の程度・レベル、あるいはそれをめぐる「社会通念」がどのようなものかの判断を、原子力規制委員会の「専門技量的裁量」に委ねることは誤りであり、裁判所こそがこれを正しく判断することが求められていることを主張する。
●中電から準備書面(18)を提出。代理人から陳述があった。
★準備書面(18)の概要についての説明。
原告は放射線に被ばくすれば、その被ばく線量を問わず人体に深刻な影響が生ずるかのように主張する。原告らの主張が、低い被ばく線量の範囲における、放射線の人体への影響についての理解を欠くものであることを明らかにする。
放射線は、細胞の遺伝子を構成するDNAを損傷する場合があるが、人体にはDNAの修復作用等のがんの発生を防ぐ多数の仕組みが備わっている。低い被ばく線量の範囲においては、被ばくによるがんリスクなどの上昇は見出しがたい。
我が国の放射線防護に係る法令においてもICRP勧告を尊重する考え方が取られている。ICRPは、疫学調査等で得られたデータを踏まえた国連科学委員会の科学的知見を基に、低線量の被ばくの範囲では、放射線ががんリスクに与える影響は顕かになっていないとしている。
●次回は、2019年 7月1日(月)11:00~第一法廷
●地域情報センターで報告集会
最初に塩沢弁護士から、専門的・科学的な話でなく、文科系の私でも話せる内容にしたこと、規制委員会の適合審査中で、中電もその対応に追われている。その間は裁判所も判決を出さないだろう。裁判長もこの4月には代わる。裁判所が判決を書くのは先であろうと判断し、その間に、科学論でなく、主張すべきことは主張しようと考えている。今日はその最初の話だと説明があった。
中電の今日の準備書面(18)について、阿部弁護士から補足説明があった。放射線の人体に対する影響について原告の主張が間違っているというものだった。中電の今回の準備書面で、低線量では人体に影響を与えていないという。この点は我々も準備書面を出しており、これについてはこれ以上に反論することはないと思いますが、どこかで反論したいとは思っている。
その後参加者からの質問に対する弁護士とのやり取りがあった。
※詳しくは、以下の「口頭弁論記録」を見てください。
●原告から準備書面(27)を提出。塩沢弁護士が陳述を行った。
★準備書面(27)の概要についての説明。
最近、裁判所の内部で福島原発事故の風化の危惧を抱かざるを得ない司法判断が続いている。そこで原告らは改めて福島原発事故後の司法の在り方を問い質す。
合わせて、最近の司法判断が「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」等々、原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”として盛んに持ち出す「社会通念」に関連させ、「3・11福島原発事故後に求められている原発の安全性の程度・レベルをどう捉えるべきか」を論じた上で、その安全性の程度・レベル、あるいはそれをめぐる「社会通念」がどのようなものかの判断を、原子力規制委員会の「専門技量的裁量」に委ねることは誤りであり、裁判所こそがこれを正しく判断することが求められていることを主張する。
●中電から準備書面(18)を提出。代理人から陳述があった。
★準備書面(18)の概要についての説明。
原告は放射線に被ばくすれば、その被ばく線量を問わず人体に深刻な影響が生ずるかのように主張する。原告らの主張が、低い被ばく線量の範囲における、放射線の人体への影響についての理解を欠くものであることを明らかにする。
放射線は、細胞の遺伝子を構成するDNAを損傷する場合があるが、人体にはDNAの修復作用等のがんの発生を防ぐ多数の仕組みが備わっている。低い被ばく線量の範囲においては、被ばくによるがんリスクなどの上昇は見出しがたい。
我が国の放射線防護に係る法令においてもICRP勧告を尊重する考え方が取られている。ICRPは、疫学調査等で得られたデータを踏まえた国連科学委員会の科学的知見を基に、低線量の被ばくの範囲では、放射線ががんリスクに与える影響は顕かになっていないとしている。
●次回は、2019年 7月1日(月)11:00~第一法廷
●地域情報センターで報告集会
最初に塩沢弁護士から、専門的・科学的な話でなく、文科系の私でも話せる内容にしたこと、規制委員会の適合審査中で、中電もその対応に追われている。その間は裁判所も判決を出さないだろう。裁判長もこの4月には代わる。裁判所が判決を書くのは先であろうと判断し、その間に、科学論でなく、主張すべきことは主張しようと考えている。今日はその最初の話だと説明があった。
中電の今日の準備書面(18)について、阿部弁護士から補足説明があった。放射線の人体に対する影響について原告の主張が間違っているというものだった。中電の今回の準備書面で、低線量では人体に影響を与えていないという。この点は我々も準備書面を出しており、これについてはこれ以上に反論することはないと思いますが、どこかで反論したいとは思っている。
その後参加者からの質問に対する弁護士とのやり取りがあった。
※詳しくは、以下の「口頭弁論記録」を見てください。
浜岡原発永久停止裁判 第25回口頭弁論
2019年2月4日(金)晴れ
10:00 浜松市地域情報センターホールに原告や傍聴者が集まり始めた。
10:30 裁判所内の部屋で傍聴抽選の予定であったが、全員が傍聴できた。
11:00 裁判が開始。
裁判長は上田賀代、右陪審は荒井格、左陪審は安藤巨、
訴訟代理弁護団計22名の弁護団のうち、今日の参加者は10名。
大橋昭夫、森下文雄、塩沢忠和、杉山繁三郎、阿部浩基、佐野雅則、平野晶規、北上紘生、栗田芙友香、青柳恵仁、
被告側は国と中電の14名。
11:00 裁判長;それぞれからの準備書面の確認。それぞれから補足説明がある。原告からは準備書面(27)被告中電から準備書面(18)の提出。その他の書証の確認。
11:02 裁判長;原告から補足説明を。
原告・塩沢代理人:準備書面(27)の概要についての説明(ここでは準備書面(27)をそのまま掲載する)。
(はじめに)「福島原発事故後の司法の在り方は、原告らはすでに、弁論更新に当たっての2015年7月6日付準備書面(12)で述べているところであるが、最近、裁判所の内部で福島原発事故が風化しつつあるのではないかとの危惧を抱かざるを得ない司法判断が続いている。そこで原告らは、かかる状況を踏まえ、改めて本書面にて、福島原発事故後の司法の在り方を問い質す。
合わせて、最近の司法判断が「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」等々、原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”として盛んに持ち出す「社会通念」に関連させ、「3・11福島原発事故後に求められている原発の安全性の程度・レベルをどう捉えるべきか」を論じた上で、その安全性の程度・レベル、あるいはそれをめぐる「社会通念」がどのようなものかの判断を、原子力規制委員会の「専門技量的裁量」に委ねることは誤りであり、裁判所こそがこれを正しく判断することが求められていることを主張する。
第1.リメンバー3・11福島第一原発事故
1.脱原発の世論や世界の動向に背を向ける安倍現政権の原発依存路線
(1)安倍晋三を首班とする自民公明連立政権は,昨年(2018年)7月に第五次エネルギー基本計画を閣議決定したが,そこでは「2030年に原発の電源構成比を20~22%にする」としている。しかし,2030年に原発の電源構成比を20~22%にするためには,30基程度の原発を必要とする。原発の寿命は2013年7月8日に施行された改正原子炉等規制法で40年とされた(40年ルール)。ただし,原子力規制委員会の運転延長の認可を得れば,一回に限って20年までの運転延長が例外的に認められている。40年ルールに従えば,2030年には,電力各社がかかえる原子炉は18基が残るだけになる。したがって2030年に30基程度の原発を稼働させるためには,12基分について新設や作り替え(リプレース)に加え,改正原子炉等規制法の例外規定を事実上原則規定にし,最大20年の寿命延長を図らねばならない。このように,将来にわたって原発に依存し続けることが現安倍政権の既定の路線であり,福島第一原発事故の現実を臆面も無く捨て去ろうとしている。
(2)一方,日本世論調査会が2018年2月24日,25日に実施した東日本大震災と東京電力福島第一原発事故に関する全国面接世論調査の結果によれば,「原発の安全性は向上したと思うが,深刻な事故の懸念は残る」と答えた人が56%に上り,「安全性は向上しておらず事故の懸念も残る」との回答も27%で,合わせて83%の国民が原発事故への不安を抱いている。また,今後の原発の在り方について,64%が「段階的に減らして将来的にゼロ」,11%が「いますぐゼロ」と答えている。このように,世論は圧倒的に脱原発である。
このような国民世論の動向は,他の多くの調査結果においても変わらない。安倍政権の将来にわたって原発依存をひた走ろうとする路線が国民世論に背を向けたものであることは明らかである。
(3)さらに、2019年1月17日、日立製作所はイギリスでの原発建設計画を正式に凍結した。安倍政権が成長戦略の一つに掲げてきた国を挙げての原発輸出戦略は、アメリカ、台湾、ベトナム、アラブ首長国連邦、インド、ヨルダン、トルコ、リトアニアに続き、日立によるイギリスへの輸出凍結によって総崩れとなった。原発ゼロを求める国民世論がその背景にあるとともに、今や原発ビジネス自体が経済的合理性を失いつつあることが世界的に明らかになってきていると言え、同月19日、朝日新聞は「原発輸出総崩れ、成長戦略の誤り認めよ」、中日新聞は「原発輸出、失敗認め戦略の転換を」と、いずれも社説で、政府に対して原発輸出戦略の根本的転換を求めている。
2.3・11後の司法の動向
(1)3・11がもたらした衝撃の大きさ
福島原発事故は,日本社会に大きな衝撃を与えた。科学技術の発展が人類の豊かな未来を約束するというドグマは打ち砕かれ,人類の行く末に不安が広がり,私たち一人一人が科学技術の便益にどっぷりつかった生活のありように反省を迫っている。そしてこの事故は,司法に対しても反省を迫るものであった。本件において原告らは、第5次の提訴に当たり、訴状6頁以下で「福島原発事故から論じる意味」をまずもって問い掛けている。3・11福島原発事故からまもなく8年目を迎えようとしている今、原告らは、改めてこの意味を問い掛ける。
(2)裁判官達の率直な述懐
(3・11前の)原告住民の申立を退けた裁判官たちが福島原発事故をどのように受け止めたか,その内声に触れることができる貴重な書籍が、「原発と裁判官-なぜ司法は『メルトダウン』を許したか」(朝日新聞出版)である。この中で裁判官たちは以下のように率直に述懐している。
・海保寬元裁判官(高浜原発2号機訴訟一審裁判長)
「裁判官時代の私には原発への関心や認識に甘さがあったかなと思うのです。専門家が言っているから大丈夫ということではなく、立ち止まって合理性をもっと検討することが必要だったのかなと思います。司法全体が安全性について踏み込んだ判断を積み重ねていたならば審査指針は改善されたかもしれない。もしそうしていれば、あの福島の事故は防げたんじゃないかな。」
・塚原朋一元裁判官(女川原発1,2号機訴訟一審裁判長)
「判決の中に繰り返し出てくる『社会観念上』の根拠となるのは何か」の問いに対し「あれは、当時の私の社会観念です。……これについては、いま、反省する気持ちがあります。わたしは裁判長をしていたとき、『なんで住民はそんなことを恐れているんだ?』『気にするのはおかしいだろう』と思っていました。その程度だったらいいじゃないかと考え、『無視し得る程度』という表現に至ったのです。」
(福島第一原発事故が起きたのを境に、人々は放射能に対して一挙に敏感になり、福島産品だけでなく、広く北関東の農作物まで避けようとする人たちも現れた。自分にも息子がいて、孫もいて、わざわざ北海道の牛乳を選んでいることについて)「息子たちのように、自分の幼い子どものことを考えてそういう行動をする……。これを不合理だとか不合理でないとか言ってみても始まらない。現実の経済活動がそうなってしまっているわけです。ということは『その程度だったらいいじゃないか』という、当時の私の感覚は相対的なものだったということになります。自分の子どもには『負の遺産』を負わせたくないという親の気持ちを思うと、わたし自身の考えも変わっていきました。」
・鬼頭季郎元裁判官(福島第二原発3号機訴訟二審裁判長)
「専門家らの判断を信頼していいとした点は正直、必ずしも一般論としてそうは言えなかったと痛感しています。いわゆる原子力村のなかは政・財・官・学がほとんど一体で、しかも、行政が電力会社になかなか逆らえる雰囲気ではなかった。言い訳になるかもしれませんが、そうしたことが裁判の当時はまだ明らかでなかった。はっきりしたのは、3・11後です。すると、検査そのものも、たとえ行政が『問題なし』としても疑ってみる必要があったかもしれません。株主の側がこうしたことを具体的に論証したのではなかったのですが、いまから考えると、専門家らの判断を信頼しすぎた点には問題があったと思います。」
(3)3・11後の司法判断の流れ
(この点についても原告準備書面(26)ですでに概観しているが,主要な判決・決定について再度取り上げる。)
ア.福島原発事故が起こった後,原発の運転差止めを求めて多数の訴訟が提起され,既に相当数の判決・決定が出されている。そうした中で,大飯原発3,4号機の運転差止めを命じた福井地裁平成26年5月21日判決は,「かような(福島原発事故のような)事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい」と裁判官としての覚悟と矜持を示し,従来の判断枠組みに捉われない独自の判断枠組みを採用して請求認容判決を導いた。
イ.また,高浜3,4号機の運転禁止を命じた大津地裁平成28年3月9日決定は,福島原発事故の原因究明が今なお道半ばであるのに津波想定の甘さだけを問題にする原子力規制委員会について,「そもそも新規制基準策定に向かう姿勢に非常に不安を覚える」と批判し、「新規制基準及び本件各原発に係る設置変更許可が直ちに公共の安寧の基礎となると考えることをためらわざるを得ない。」と断じた。日本の司法では,行政が行う施策については,よほどのことがない限りこれに異を唱えない司法消極主義が幅を利かせているが,福島原発事故前の原発運転差止め訴訟における司法のありように対する反省に基づき,一歩前に踏み出そうとした意欲的な判断であったと評価できる。(2017年12月・日本科学者会議主催・原発問題全国シンポでの井戸洋一弁護士の基調講演より)
ウ.さらに伊方原発3号機について,平成30年9月30日までの期限付きではあったが,広島高裁平成29年12月13日決定は,火山噴火リスクを根拠に運転を差し止めた。3・11後に原発運転差止めを認めた初めての高裁決定であった。この決定は,原子力規制委員会が最新の科学技術的知見に基づいて定めた火山ガイドが考慮すべきと定めた自然災害について,社会通念を根拠に限定解釈をして判断基準の枠組みを変えることは,原子炉等規制法及びその委任を受けて制定された新規制基準の趣旨に反すると判断した。この決定は,独立した司法が,3・11後の地震・火山大国日本において,国民を破局的災害から守るために果たすべき役割を正確に認識して下された,真に画期的なものであると評価できる。(判例時報2354号120頁以下「独立した司法が原発訴訟と向き合う③」海渡雄一弁護士の論説より)
エ.このような動きに危機を感じた原子力規制委員会は,平成28年6月29日「実用発電用原子炉に係る新規制基準の考え方について」という文書(以下「考え方」という。)を公表した(その後同年8月24日、平成29年11月8日、平成30年12月19日に各改訂)。この「考え方」は,全国の訴訟で原告住民側が指摘している新規制基準の問題点について,これが合理的であると主張するものであり,被告国や電力会社は,本件を含む全国各地の訴訟で、これに依拠しての主張・立証を展開している。
そうした中で,上記ア,イ,ウの三つの判断はいずれも上級審で覆された(アにつき名古屋高裁金沢支部平成30年7月4日判決,イにつき大阪高裁平成28年3月9日決定,ウにつき広島高裁平成30年9月25日決定)。名古屋高裁金沢支部及び広島高裁が根拠としているのが,後に詳述する「社会通念」論であり,大阪高裁に至っては,規制委員会の「考え方」をそのまま引き写した関西電力の主張そのまま(判例時報2334号6頁の解説)の“コピペ”決定である。
(4)司法判断の分かれ道はどこにあるのか
前記福井地裁平成26年5月21日判決を下した裁判体の裁判長であった樋口英明元裁判官は,地震を理由に原発の差止めを認めた自分とそれを認めなかった裁判官のどこが違うかについて,次のとおり述べている(「法と民主主義」2018年12月NO.534・17頁)
「3・11後に原発訴訟を担当した裁判体のうち、地震を理由に差止めを認めたのは私の裁判体と大津の山本善彦裁判官の裁判体の二つだけですが、差止めを認めなかった裁判体は十指に余るのです。これらの裁判官と私のどこが違うのかというと、心底、原発が危険で怖いと思っているか否かの違いです。」
3.原発事故災害の途方もない危険性を改めて再確認すべき
(1)福島原発事故は「いくつかの良き偶然」が重なった事故であること
ア.現に発生し今なお続いている福島原発事故の被害の甚大さはここで改めて述べるまでもない。ここでは,樋口元裁判官が「心底、原発が危険で怖いと思っている」と述べていることに関連すること,即ち,「これ以上はないほど大きな被害だ」と言いたい福島原発事故の被害状況ではあるものの,実はこの事故は,いくつかの良き偶然が重なった結果として「この程度の被害で済んだ」ものであったことを,以下のとおり指摘する(この点は,本来もっと大きく取り上げられるべき問題であるにもかかわらず,なぜか意外と知れ渡っていない)。
イ.まず,事故当時,4号機の使用済み核燃料貯蔵プールには大量の使用済み核燃料が入っていたところ,全電源喪失により循環水の供給が停止し,そのため,使用済み核燃料の加熱による放射性物質の大量放出が危惧されていた。しかし,同プールに隣接する原子炉ウエルに張られていた水が,プールと原子炉ウエルを隔てている壁がずれてプールに流れ込んだため,放射性物質の大量放出には至らなかった。壁がずれた原因が地震の衝撃によるものか,水素爆発の衝撃によるものか,それとも水圧差によるものかは未だ不明である。しかも,原子炉ウエルの水は工事が予定よりも遅れたために残っていたもので,本来の工事予定だと四日前に水は抜かれていたはずであった。
原子力委員会委員長の近藤駿介氏は,当時の菅総理からの命により福島原発事故から想定される被害規模の見通しを報告したが,被害想定のうち最も重大な被害を及ぼすと想定されていたのは,この4号機の使用済み核燃料貯蔵プールからの放射能汚染であり,東京都のほぼ全域や横浜市の一部を含む半径250キロメートル圏内が避難区域になり,この範囲は自然に任せておくならば数十年は続くとされた。この被害想定が,「天の配剤」とでもいうべき良き偶然の重なりによって現実化を免れたのである。
二番目に,4号機に水素爆発が起こったものの,使用済み核燃料貯蔵プールの保水機能はなんとか維持され,かえって水素爆発によって原子炉建屋の一部が吹き飛んだため,そこから水の注入が容易となった。
三番目に,3月15日になると,2号機の格納容器内の圧力は限界を超えて高まり,放射性物質の大量放出を伴う格納容器の圧力破壊の危険が高まった。吉田所長も一時圧力破壊を覚悟し,この際,吉田所長の脳裏には「東日本壊滅」という言葉がよぎったと言う。しかし幸いにも格納容器は圧力破壊を免れた。格納容器のどこかに脆弱な部分があったためそこから圧力が漏れ,圧力破壊に至らなかったとの推測がされているが,その明確な原因も未だ不明である。(以上、前記「法と民主主義」2018年12月号)
ウ.このように,我が国にとって僥倖の連続があったにもかかわらず,福島原発事故は我が国始まって以来の国土の荒廃をもたらし,10万人を超える人々の生活を奪った。しかしこれらの僥倖がなかったら事故による避難民の数は3000万人を超え,東日本壊滅という吉田所長のおそれていた事態が現実化したのである。
(2)原発事故災害の例えようもない危険,その被害の絶大さへの想像力を持つことが原発訴訟に取り組む
上での出発点となるべきこと
ア.判例時報は,その2345号(平成29年11月11日号)以降で,「岐路に立つ裁判官(8)・独立した司法が原発訴訟と向き合う」と題しての連続特別企画を組んでいる。その最初の論説を担当した河合弘之弁護士は,「第1.原発訴訟の重要性」の冒頭,「今の日本の社会問題、政治問題、経済問題の中で一番重要な問題は、実は原発問題である。それは大げさだという人がいるかもしれないが、事実だ。なぜならば、原発の重大事故は、全ての社会的な基礎を覆すからだ。……全ての裁判の中で原発訴訟が一番重要だというのは決して大げさな言い分ではない。」とする。
この点につき同弁護士は,脱原発弁護団のメーリングリスト上で,さらに具体的に次のように訴えている。
「社会には種々の問題がある。雇用、教育、収入格差、福祉、安全保障等々である。それらは各々重要であり、真剣に取り組まなければならない。しかし、その社会問題の中で、最も重要なのは原発の問題である。なぜならば、原発重大事故はすべての社会問題を「吹き飛ばす」からである。原発重大事故が起きれば、職場は崩壊するから、労働、雇用どころではなくなる。学校は無くなり、学生は避難するから教育が成り立たない。放射能はすべての資産を無価値にするから、富裕層も貧困層も経済的に成り立たなくなり、収入格差是正どころではなくなる。要介護老人や幼児の保護も、老人と子供は避難しなければならないので、福祉どころではなくなる。原発重大事故が起きれば、国は事故の鎮圧と被害の救済に忙殺され、また、国力は極限まで低下するから他国が侵入してきたときには無力である。すなわち安全保障どころではなくなる。」
これは,原発差止め訴訟の申立人側代理人を担う弁護士の立場から,原発事故災害の危険性=原発訴訟の重要性を指摘するものであるが,同じ事は,原発差止め訴訟を担当する裁判官に対しても指摘し得るものと考える。
イ.「心底、原発が危険で怖いと思った」樋口元裁判官は,3・11後はじめて原発差止め判決を下した判決理由の中で次のように判示する。
「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通して十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」
裁所の内部で福島原発事故が風化しつつあるのではないのか,裁判官は再び司法消極主義の殻に閉じこもろうとしているのではないかとの危惧を抱かざるを得ない今だからこそ,間もなく8年目を迎える3・11福島原発事故は何であったのか,何が明らかとなり,しかし今なお何が明らかになっていないのかを,改めて見つめ直すことを裁判官に対し切に望むものである。
第2.原発に求められる安全性の程度・レベルはどのようなものか
1.「原発に求められるのは絶対的安全性ではなく相対的安全性である」とした上でのいわゆる「社会通念」論について
(1)「一般に科学技術の分野において,絶対的に災害発生の危険がないといった“絶対的安全性”というものは達成することも要求することもできない」とされることについて
ア.元々,原子力を推進してきた政府(とりわけ経産省)や電力会社は,柏崎刈羽原発が新潟県中越沖地震で設計上の想定を大幅に上回る大きな揺れにより火災を起こした時も,日本の原発は地震に強く,絶対に安全であるかのように強調していた。福島原発事故以後は,さすがにこのような主張は聞かれなくなったが,日が経つにつれて「原発が絶対安全と言ってきたことは間違っていた,そのことはお詫びする」とした上で,「しかしながら,世の中に絶対安全などないでしょう,航空機や自動車も事故を起こすけど,それでも人はそれを利用するでしょう,要はどの程度安全が保たれていればよいかという相対的なものであって,原発だけが特に危険とするのは間違っている」として,原発に特に高度の安全性を求める意見に対して「ゼロリスク論」というレッテルを貼り,「原発に絶対的安全を求めるのは非科学的である」と言った喧伝がなされるようになった。
イ.このように,科学技術を利用した各種の装置・施設という点では原発も航空機や自動車と同一であり,そこでの安全性とは相対的なものであるとした上で,「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」とか,「基準地震動(あるいは「クリフエッジ」)を超える地震が来る可能性は社会通念上無視できる程度の確率にとどまる」等々,最近の司法判断の中に,原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”に「社会通念」なるものが使われるケースが多発している。しかし実は,これは今に始まったことではない。3・11以前の裁判例においても,被告電力事業者が立証すべき「安全性に欠ける点のないこと」が「原発の危険性が社会通念上無視し得る程度に管理されていること」と言い換えられるのが通常であり、ここに「社会通念」という概念が枕詞のように使われていた。しかも、「原発の危険性が社会通念上無視し得る程度に管理されているか否かは、審査基準の合理性と適合性判断の合理性に置き換えられ、それは、基本的に「専門家」が判断することと認識されていたのである。」(「法と民主主義」NO.508・2016年5月号井戸謙一弁護士「原発関連訴訟の到達点と問題点」より)
ウ.本件において被告中部電力も,平成26年5月21日福井地裁判決(樋口裁判長のもとでの判決)が「大きな誤りを犯した不当なものである」として提出した平成26年11月7日付準備書面(4)の「3 科学技術の利用に関する基本的理念」の項で,この「基本的理念」を正しく判示する裁判例として、以下の2件を含む4件を挙げている(ここでは便宜上,以下の2件の被告引用判示部分の核心部分のみ挙げる)。
①水戸地裁昭和60年6月25日判決・判例時報1164号119頁(日本原子力発電株式会社東海第二発電所原子炉設置許可処分取消請求事件)
「そもそも,人間の生命,身体の安全は,最大限の尊重を必要とする法益であることは改めていうまでもないが,……人間の生命,身体に対する害が,又はこれを生じる危険性(可能性)が……絶対的に零でなければ人間社会において存在を許されないとするならば,放射線のみならず,現代社会において現に存在が受容されているおびただしい物質,機器,施設等がその存在を否定されるべきこととならざるをえない(たとえば,水力発電所も火力発電所も例外ではありえない)。」
②東京高裁平成13年7月4日判決・判例時報1754号46,47頁(東海第二発電所原子炉設置許可処分取消請求控訴事件)
「科学技術を利用した各種の実用機械,装置等にあっては,程度の差こそあれそれが常に何らかの危険を伴うことは避け難い事態ともいうべきところであり,ただ,その科学技術を利用することによって得られる社会的な効用,利便等の対比において,その危険の内容,程度や確率等が社会通念上容認できるような水準以下にとどまるものと考えられる場合には,その安全性が肯定されるものとして,これを日常の利用に供することが適法とされることとなるものと解すべきである。この理は,原子炉施設における安全性の問題についても基本的に異なるところはないものというべきである。」
(2)原発過酷事故災害と一般産業設備や航空機・自動車等の事故災害とを同一レベルで論ずることは明らかに誤りであること-原発事故災害の異質性,異次元性-
ア.原告らも,原子炉等規制法を始めとする我が国の原発関連立法が,「原子力発電に一定の潜在的な危険が内在することは前提として,そのような危険を顕在化させないよう管理していくことを念頭に置き,そのようにして災害の防止に支障がないものとすることができる限り原子炉の設置を認めるとの立法」であること,そしてそれ故に「仮に論理的ないし抽象的,潜在的な危険性が少しでもあれば原子力発電所の建設及び運転は一切許されないというのであれば,それは原子炉等規制法の採った上記の立法上の判断そのものを否定することになること(被告準備書面(4)6頁)」については,この立法を所与の前提とする限り,これを争わない。また,「一般に科学技術の分野においては,絶対的に災害発生の危険がないといった『絶対的安全性』なるものは達成することも要求することもできないものである」ことも,一般論としてはこれを認める。
イ.しかしながら,「科学技術を利用した各種の実用機械・装置等」の中にあって,唯一原発だけは,万一重大事故が発生した場合の危険性において,一般産業設備や各種交通事故のそれとはおよそ比較すること自体も困難な,異質性・異次元性を有している。この点をあいまいにしたままの“相対的安全性”論や“社会通念”論は断じて許されない。
①まず,一般産業設備との比較で言えば,一般産業設備では,火災などが発生して手がつけられなくなった場合に,そのまま放置しておいても周辺住民にとりかえしのつかない重大な被害を及ぼすことはほとんどない。たとえば,2011年3月11日に発生した東日本大震災に際して,コスモ石油(株)千葉製油所の球形タンク17基が大火災に遭遇したが,10日間燃え続けるにまかせたのちに自然鎮火した。それでも,周辺住民にはほとんど被害を及ぼすことはなかった。
このことを考えれば,被告が取り上げている前記①の判決(水戸地裁昭和60年6月23日判決)が,「(絶対的安全を求めた場合はその存在が否定されるべきことになる点では)水力発電所も火力発電所も例外ではありえない」としている点は明らかに誤っている。原発には絶対的安全を求める「ゼロリスク論者」は,火力発電所にまでそれを求めることはしない。なぜなら,火力発電所に仮に重大な火災事故が発生したとしても,上記コスモ石油製油所の大火災同様,燃えるにまかせたのちに自然鎮火させるまでであって,それによって電力会社は多大の損失を蒙るとしても,周辺住民にはほとんど被害が及ばないことは十分あり得るからである。しかし原発過酷事故はそうはいかない。この点の決定的違いはいかんともし難い。
②さらに,産業設備であれ自動車のような交通機関であれ,事故が発生した場合の後処理についてあらかじめ被害を想定しておいて,被害者に対してどのような補償を行うかをルール化しておくことが社会的に合意されている。産業設備の場合は,設備の回復のために火災保険契約がなされ,第三者の被害賠償のためには施設所有者管理者賠償責任保険を掛けておく。自動車事故に際しては,きめ細やかな保険規程が定められており,加害者になっても被害者になっても,受け入れ可能な慣行が社会的に確立している。「危険性の相当程度が人間によって社会的に管理されている」とは,こういうことを言う。
しかし原発の場合は,それらとは根本的に条件が違う。原発での過酷事故が発生した場合には,初期の冷却を失敗すると,被害は敷地内にとどまらず広大な範囲に放射能が飛散して住民の命と健康を脅かし,環境を汚染して長期間にわたって居住困難にする。事故の被害規模があまりに大きく,事前に損害賠償制度や事故処理体制を確立して国民的合意を行うことはおよそ不可能である。
③より根本的な異質性・異次元性を指摘するならば,それは言うまでもなく,原発が原発であるが故に内在させている潜在的危険性としての大量の放射性物質の存在である。
即ち,安全性の観点で原発が航空機や自動車と決定的に異なるのは,その制御の困難さと同時に,大量の放射性物質の存在(広島型原爆の300倍と言われている)である。事故の初期状態で収束できれば良いが,事故の進展とともに放射性物質の漏洩をともない,作業環境が厳しくなり,事故収束がますます困難になる。火災でいえば初期消火に失敗し,消火が不可能な状態に相当する。この「しきい値」に相当するのが炉心溶融である。原発の安全設計思想はこの炉心溶融を起こさないようにすることにあったが,福島原発事故により、現実の原子力プラントが炉心溶融すなわち過酷事故を防ぎ得ないことが明らかになった。
原発は確率的な安全に頼った設計であり,多重防護や深層防護をどんなに強化しても,大規模な事故の発生可能性は残る。しかも,事故の状況によっては,自らの命を省みずに事故に立ち向かう“決死隊”の犠牲の上にしか事故収束ができない状況に陥る。航空機や自動車でも事故の可能性はあるが,最悪の事故の被害の大きさは比較にならない。一回の事故で国家の存立すら危ぶまれる規模の事故を起こすことなど,万が一にも許されるはずがないし,また起きた時の損失の大きさを誰も補償することができない。(以上「原発ゼロ社会への道2017」184頁以下「原発の安全とリスク評価」より)
(3)今日における「社会通念」の意味合い
以上のことは,3・11以前にも,少なからぬ科学者や有識者により繰り返し指摘され続けていたし,数々の行政訴訟や民事差止め訴訟で原告らが,累々たる敗訴判決にもめげず訴え続けたことである。しかしそれらは,国(とりわけ経産省)や電力会社が振りまく“安全神話”にかき消され,“社会通念”にはならなかった。
だがしかし,樋口元裁判官が言うとおり,原発事故が「心底危険で怖いこと」が3・11福島原発事故を通じて十分に明らかとなった今や,あるいは同事故を受けて新たに付け加えられた原子力基本法第2条2項が,「前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」と定められた今,さらには,原発の再稼働に反対する意見が常に世論の過半数を占めている今日,これまで原発に求められる安全性の程度・レベルを低くする意味合いで使われてきたこの「社会通念」の意味合いを,根本的に転換することが求められている。
2.本件浜岡原発に求められるべき安全性の程度・レベルに付いての原告らの主張
以上のごとく,原発事故の例えようのない深刻さが明らかになった今日,それでもこの社会が原発の運転を許容するのであれば,その場合の条件として原発が備える安全性は極めて高いもの,すなわち,確立された国際基準が求める重大事故の発生確率を10万年に一度程度にまで維持することが求められていると解釈することこそが,今日の「社会通念」である。そしてこの理は、樋口判決が「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえ」、したがって原発訴訟においては「かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるかのかが判断の対象とされるべき」としていることと同じであり、且つこの理は、後述する平成4年
10月29日の伊方原発最高裁判決が、原子炉等規制法が定める安全審査の目的を「原子炉施設の安全性が確保されないときは、……深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、深刻な災害が万が一にも起こらないようにするため」としていることによって裏付けられている。この最高裁判決が、その6年前の1986年(昭和61年)チェルノブイリ原発事故、さらにその7年前の1979年(昭和54年)のスリーマイル島原発でのメルトダウン事故という二つの重大事故の影響を受けていることは明らかである(同判決に関する高橋利文最高裁調査官による判例解説は、両事故の発生を引用の上「事故以来、原子力発電の安全性に関する社会的関心は、次第に高まっているようである」としてい
る)。
原告らは、このような時代背景の中でこの判決は出されたことを忘れてはならないと考える(判例時報2354号・122頁、「独立した司法が原発訴訟と向き合う③-伊方原発最高裁判決の再評価」海渡雄一弁護士)。
第3 原発に求められる安全性の程度・レベルを,だれがどのように判断すべきか
1.今なお司法判断の基本的枠組みとして下級審を拘束している平成4年10月29日伊方原発最高裁判決について
(1)伊方原発訴訟は、我が国で最初に提起された原発訴訟であり、内閣総理大臣が1972(昭和47)年11月28日に行った伊方原発1号炉の設置許可処分の取消を求める行政訴訟であった。
提訴から20年を要して1992年(平成4年)10月20日に下された最高裁判決(判例時報1441号37頁)の結論は、原告住民の請求棄却を確定させた判決であったが、最高裁はこの判決の中で、原発行政訴訟における司法審理のあり方についての基本的枠組みを示した。そして、この行政事件に関する最高裁判決が,運転差止めの民事訴訟においても,司法判断の基本的枠組みとして下級審を拘束することになり、それが3・11後の現在もなお続いている。
(2)同最高裁判決は、20年間も頑張り続けた末に「請求棄却」を最終的に確定させられた住民側の弁護士にとってはすこぶる評判の悪い判決ではあったものの、よく検討してみると、本件原告らからみて評価すべき、以下のごとき積極面もあった(これが、世界に衝撃を与えたスリーマイル島及びチェルノブイリという二つの原発過酷事故の深刻被害を踏まえてのものであったことは、前述のとおり)。
即ち、まず第一に、原発関係法規が定める安全審査の目的を「原子炉施設の安全性が確保されないときは……深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、深刻な災害が万が一にもおこらないようにするため」としている。
第二に、どの時点の技術水準で違法性判断をするのかについて、裁判所が依拠すべき科学的知見は、国の設置許可処分時のそれだけでは足りず、その後に判明した「現在の科学的技術水準に照らし判断する」としている。
第三に、次のように判示して、立証責任を事実上被告国(行政庁)に転嫁している。
「被告行政庁の判断に不合理な点がないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証をつくさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される」
(3) 上記のごとき評価はできるものの、しかし、この最高裁判決がその後の下級審に絶大な影響を及ぼした点は、以下のごとき原発訴訟における司法判断の審査手法・判断のあり様に関する判示であった。
①「原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門的技術的な審議及び判断を基にしてなされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行わるべき」
②判断の対象は,①用いられた安全審査基準に不合理な点があるか,②基準に適合するとした調査審議及び判断過程に看過し難い過誤・欠落があるか否か。
③そしてその判断は,「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的・専門的技術知見に基づく意見を尊重」して行なう。
(3)さらに、この最高裁判決が招いたいわば弊害(副産物)として、「この最高裁判決の趣旨とは異なり,実質的には原告(住民側)に立証責任を再転換する,いわば『変質した伊方最高裁判決枠組み』を生み出した」との指摘もされている(法と民主主義2018.8.9井戸弁護士)。3・11後の最近の司法判断が、まさにこれである。
2.「社会通念上無視し得る危険」か否か=「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されている」か否かは,司法(裁判所)こそが判断すべきであること
(1)従来,裁判所には科学的専門技術的な判断力に限界があるから,原発に求められる安全性は裁判所
には決することができず,科学的専門技術的な知見を有する科学者を擁する行政庁こそが安全性について妥当な判断を行い得るという発想が裁判官の間に存在し(後述する司法研究所での特別研究会における裁判官の発言参照),これが専門技術的裁量の実質的な根拠とされてきたようである。しかし,原発の安全性はあくまでも「社会」が求める安全性であって,「科学者」が求める安全性ではない。科学者は,自然のしくみを解明する(リスクの有無や程度について評価する)ことに関しては専門的な知見を有するが,そうやって科学によって導き出されたリスクについて,社会が受容可能であるかどうかについては専門的な知見を持たない。後者の問題は,むしろ社会学,倫理学及び法学などの人文・社会科学の専門的知見によって決せられるべきであって,司法にはその点についての専門的知見の欠如から生じる判断力の限界はなく,本来その専門性を発揮すべき領域のはずである。
(2)そしてこのようなことは、原発訴訟以外の一般的裁判において,我々法曹が普通に経験している事
柄である。建築紛争しかり,医療過誤しかり,刑事裁判における責任能力問題しかりであり,司法(裁判官)は,その道の専門家,科学者の工学的・医学的・精神科的判断を尊重してそれを前提としつつも,予見可能性,結果回避可能性,法的文脈における是非弁識能力の有無等,科学的合理性判断とは異にする社会的合理性に関する価値判断をして来ているのである。ところが,こと原発になるとなぜか(前記伊方原発最高裁判決が科学的専門技術的判断,裁量への「尊重」を求めていることの弊害なのか),科学者が原発の安全性に関する結論まで述べ,裁判官は、この「専門技術的裁量」を根拠に,常に行政庁の判断を尊重するという姿勢になってしまっているのではないのか。これではもはや、司法は何の判断もしていないに等しい。
(以上,判例時報2361号「独立した司法が原発訴訟に向き合う④」中野宏典弁護士の論説より)
(3)浜岡原発の危険性を心底怖いと心配する原告らは,「規制委員会の適合性判断をクリアすれば安全で
ある」とする被告中部電力の主張に納得できないが故に本訴を提起しているのである。その原告らに対し,裁判所が「いやいや,原発問題に関する専門技術的知見を有する規制委員会が基準をクリアしていると判断しているのであるから心配しなくてもよい」との判決を下したところで,原告らが納得するはずがなかろう。原発の稼働について,福島第一原発事故以前の裁判例は,万が一の事故など起こらないだろうという安全神話のもとで,人格権の問題とは言いながらも,どこかエネルギー政策の問題であるかのように捉えてきた。しかし,福島原発事故は,これが極めて多数の人々の生命や健康,生活していた土地を,そこで育んできた関係性も含めて丸ごと奪われるという人格侵害なのだということを否応なく突き付けた。国家や第三者による人権侵害を救済することこそが司法の主要な目的である以上,たとえ原発の推進が国策であったとしても,積極的に人権救済のための判断を行わなければならない。
(4)原子力規制委員会には「社会通念」の評価についての専門技術的裁量はないこと
規制委員会は,前述の「考え方」の中で,同委員会の判断が「社会通念」であるかのごとく,「相対的安全性の具体的な水準は,原子力規制委員会が,時々の最新の科学技術水準に従い,かつ,社会がどの程度の危険までを容認するかなどの事情をも見定めて,専門技術的裁量により選び取るほかはなく,原子炉等規制法は,設置許可に関わる審査について,原子力規制委員会に専門技術的裁量を付与するに当たり,この選択をも委ねたものである。」としている。
しかしこれは明らかに誤っている。原子力の専門家は,過酷事故の確率を○万年に1回と計算することはできるかもしれない。しかし,社会通念の評価は,原子力工学や地震学等の自然科学だけではなく,哲学,宗教学,社会学,歴史学等の総合的判断,いわゆる「トランスサイエンス」,「科学に問うことはできるが,科学によってのみでは答えることのできない問題」である。原子力規制委員会にはその専門性はなく,司法(裁判所)こそが判断すべき問題である。裁判所は,原発のリスクと社会が受ける利益について検討し,日本の社会がそれでも原発のリスクを受け入れているのか,受け入れているとしたら,どこまでそのリスクを極小化する必要があるのかを,正面から考えなければならない。
(2018年7月第4回全国研究・市民交流集会inふくしま「原発と人権」での井戸謙一報告「原発差止め訴訟判決の成果と課題」より)
3.司法消極主義の殻に閉じこもっていることは許されない
(1) 3.11原発事故以前において,いわゆる“原子力ムラ”の中心的立場の1人であった,元内閣府原子力委員会委員長代理の原子力工学博士鈴木達治郎氏(現・長崎大学核兵器廃絶研究センター長)は,昨年(2018年)7月に福島大学にて開催された第4回「原発と人権」シンポジウムでの基調報告で,「長い間原子力政策に関わり,福島原発事故の時には政府の原子力委員会にいた1人として,深く反省して謝罪申し上げたい」とした上で,「原発事故の教訓とは何か」とのテーマで以下のとおり発言している(「反核法律家」97号,2018年冬号より)。
「まず,安全神話をつくった最大の原因の一つとして,想定できることしか想定していなかったということです。今後これを変えなくてはいけない。事故は必ず起きるという前提で,すべての対策を練っておくことが大事なのだと,私は今,原子力の関係者に言っているんですが,どうも想定できないことを想定するのを嫌がる方が多い。しかし,これが直らないと,原子力の安全性というのはなかなか保てない。二つ目に重要なのは,安全性を図る評価の問題です……我々工学部の人間は,安全性を「リスク評価」で判断します。事故確率と結果を掛け合わせる評価法ですが,これでは,原子力の安全性が他のエネルギー技術に比べ非常に高いことになってしまいます。福島の事故で,工学的な「リスク評価」だけでは安全性を評価できないことを身をもって知りました。これから原子力の「リスク評価」をするとき,安全性を評価する時,工学的観点だけでは不十分で,経済,社会,倫理,宗教,文化,すべてを含めてリクス評価をしなければいけないということです。」
(4)このように、3.11以前の「原子力ムラ」における中心的存在であった原子力工学科学者が,かくのごとく率直な反省の立場を表明し,かつての原発安全神話を告発する発言をしているのである。しかるに裁判官が,「人間の力ではゼロにすることのできない事故のリスクにつきどこまでの確率なら許容するのかというのは,専門技術的裁量の問題ではなく,政策的決断の問題であって裁判所の判断になじまないのではないか」(平成25年2月12日司法研修所における平成24年度特別研究会(第9回・複雑困難訴訟)における某裁判官の発信)などとし,司法消極主義の殻に閉じこもっていることが許されていいはずがない。
本件原告らは、当裁判所がこの問題を真正面に受け止め、司法に寄せられている国民の期待に応え得る判断を示すよう、切に求めるものである。
以上
11:23 裁判長;中電からも補足説明を。
被告中電・村上代理人:準備書面(18)の概要についての説明(被告の準備書面より抜粋)。
原告は放射線に被ばくすれば、その被ばく線量を問わず人体に深刻な影響が生ずるかのように主張する。原告らの主張が、低い被ばく線量の範囲における、放射線の人体への影響についての理解を欠くものであることを明らかにする。
7ページのところ、放射線は、人体の臓器や組織を構成する物質の原子に電離や励起を生じさせることにより、細胞の遺伝子を構成するDNAを損傷する場合があるが、人体にはDNAの修復作用等のがんの発生を防ぐ多数の仕組みが備わっている。低い被ばく線量の範囲においては、被ばくによるがんリスクなどの上昇は見出しがたい。
14ページ、我が国の放射線防護に係る法令においてもICRP勧告を尊重する考え方が取られている。ICRPは、疫学調査等で得られたデータを踏まえた国連科学委員会の科学的知見を基に、低線量の被ばくの範囲では、放射線ががんリスクに与える影響は顕かになっていないとしている。ICRP勧告は、いかなる被ばく線量でもリスクが存在するという予防的な仮定のもと、自然放射線以外の被ばく線量限度を年間1mSVとしている。我が国もこの立場を取っている。原子力発電所周辺の公衆被ばくをこれにするように定めている。
11:25 裁判長;中電から工事の進捗状況を。
被告中電・4号機の安全性対策工事は、平成30年9月以降の溢水防止対策工事である循環水ポンプ周辺工事、そして火災防護工事としての油漏えい対策工事、格納容器内のパラメーターの計測対策の強化、について、県と御前崎市に点検を受けて、HPで公表している。3号機と5号機は、特に報告なし。原子力規制委員会の適合審査について。9月以降、地盤、地震、津波のうち、①地震頻度、②プレート間地震による津波評価、③内陸拡大の振動評価、についてそれぞれ1回、合計3回。プラント関係では、地震・津波の審査はおおむね見解が取りまとめられたのち、審査を再開する。3つの審査の結果については、内陸拡大地震の振動評価について、内陸拡大地震そのもの評価は理解が得られた。プレート間地震との連動について審査が行われる。①と②については、規制委員会からのコメントがなされ、審査が続行している。
11:29 裁判長;今後について。
原告;追加がある。準備書面を用意する。
被告・中電;引き続き主張したい。
被告・国;予定なし。
11:31 裁判長;次回の日程は、7月1日(月)11:00~第一法廷で。書面は一週間前に提出を。
11:31終了
11:38 地域情報センターで報告集会
司会・高柳;司会の高柳です。今日の裁判のまとめを行います。静岡県全体から参加されていますが、
意見交換する場がなかなかなく、弁護士のみなさんに質問する機会もあまりないので、できるだけ
分からないことも含めて、いろいろ意見を出してください。
はじめに、原告側の準備書面について、塩沢弁護士からお願いします。
塩沢弁護士;裁判所から15分を目標にと言われた。20分かかった。具体的なことを話すと、時間がかかりすぎるし、意を尽くせないところはありますが、話をしました。私が今日話したことは、昨年9月、裁判を支援する会の総会での話と、12月の自由法曹団での学習会で話したことをもとにしています。これは専門的・科学的な話でなく、文科系の私でも話せる内容にしています。今日は被告の方が、もぞもぞと話していましたが、あまりよく分からない。これからも、みなさんが聞いて分かるような話をしたい。
規制委員会がいま適合審査中で、中電も課題がいっぱいあって、それに対応したことを行っている。適合審査中は裁判所も判決を出さないと思う。裁判長もこの4月には代わる。裁判所が判決を書くのは先であろうと判断し、その間に、科学論でなく、主張すべきことは主張しようと考えている。今日の私の話はその最初の話です。
司会・高柳;浜岡原発永久停止裁判県西部の会の総会で塩沢弁護士が講演をされた。自由法曹団でも講演をされた。
大橋弁護士;中部電力の今日の準備書面(18)のことを、阿部弁護士から付け加えてもらう。
阿部弁護士;放射線の人体に対する影響についてという中電の準備書面。原告の主張が間違っているというものだった。原告の書面では、どんなに低線量でも人体に対して影響を与えて、がん等を発症させるというもので、一定量を超えなくては発生しないと言うものではなくて、低線量なりの人体への悪影響があるのだという主張をしている。
中電は今回の準備書面で、低線量では、人体に影響を与えていないという準備書面を出している。これについては、我々も準備書面を出しており、これについてはこれ以上に反論することはないと思いますが、どこかで反論したいとは思っている。
司会・高柳;原告の書面では、どの書面で書いていますか。
阿部弁護士;第5次の訴状で書いている。
11:49 林さん(第5次原告);原発をなくす会の林です。今日の塩沢弁護士の話は、社会通念をどう考えるかで、分かりやすい内容だった。いま話題になっている、昨年の「ひまわり集会」でも取り上げた、東海村村長の村上さんの安全協定のこと、全国的に話題になっている。私は6月に茨城県に調査に入って、当局と意見交換をした。その中で、事前了解をするかしないかの判断のポイントは何かを聞いたら、我々は科学的・技術的なことは分からないが、住民が安心して避難できるかどうかは私たちの問われていることなので、事前了解をするかどうかは、それをもとに判断すると言っている。その意味では、科学的なことだけで判断するのは難しい。やはり住民がいかに安心できるかが大事だと。その点では、今日の主張と相通じるところがあった。視点は違っても広い意味でとらえていく必要があると思う。
裁判の役に立てるよう、原発をなくす会として、UPZ圏内プラスアルファくらいの当局に対して、避難計画の調査をしようと。県評議長を降りて、自治研究所の事務局長をやっている。そことタイアップして、住民が安心できるかどうかということで、いま調査をはじめようとしている。
宣伝ですが、2月10日13時半からアザレアの会議室で、原発なくす会の総会で、越路南行さんの講演を予定している。この一年間の規制委員会の審査状況の報告をしてもらえる。ぜひご参加ください。
11:54 掛川・斉藤さん;東海村の安全協定の話。浜岡原発のことで、4市協定の中で勉強会をやろうという話が出ている。1月14日に勉強会をやった。その内容を読ませてもらうと、プルサーマルの時、事前了解の話が出ていた。事前通報とか、中に入ってもいいのかとかの話や再稼働の話はなかった。東海村の話は出さないと、御前崎市は拒否したと。その後、1月14日に勉強会をやったということ。事前了解はプルサーマルについてあるではないかということで、自治体には判断する能力がないから、国に任せればどうだという話の内容だった。議事録も取り寄せると、そういう内容があって、4市協定の内容にはならなかったと。資料は御前崎市に言えば出て来ると思うが、福島の現実を見ると、南相馬とか、浪江とか、富岡とか、楢葉とか、ひどい被害が起こっている。双葉ではみんな逃げている。
11:58 清水さん(一次原告);御前崎の市議会の一般質問で、浜岡原発の西側にあるA17断層の質問をした。私たちは活断層だと見ている。県の有識者会議では活断層という評価をしている。一般質問をした時、議会運営委員会で「清水さんの活断層という発言は間違っている」として、改めて議会運営委員会に呼ばれた。そこに中電の人がいて、そこでやりとりをした。私は活断層だと。中電は活断層ではないと言っている。有識者会議では活断層という発言に、中電は反論せず。だから活断層だと言っている。御前崎の議運では中電は活断層ではないと言う。食い違っているが、もし分かる人いれば教えてほしい。
林(原発なくす会);これは規制委員会で昨年か6月の時、震源の基となる断層として確認されていて、活断層といっていいとなっている。
大橋(磐田);「社会通念」の質問。準備書面22ページの真ん中あたりに、今日の法廷の中でも塩沢弁護士が言われたことで「原子力の専門家は,過酷事故の確率を○万年に1回と計算することはできるかもしれない。しかし,社会通念の評価は」,云々といって、「司法(裁判所)こそが判断すべき問題である」と。一方で準備書面17ページ下段のところ「2.本件浜岡原発に求められるべき安全性の程度・レベルに付いての原告らの主張」の直前に「これまで原発に求められる安全性の程度・レベルを低くする意味合いで使われてきたこの「社会通念」の意味合いを,根本的に転換することが求められている。」としていて、その次の「2.」のところで、「確立された国際基準が求める重大事故の発生確率を10万年に一度程度にまで維持することが求められていると解釈することこそが,今日の『社会通念』である」とある。先ほどの22ページのところの「確率の問題だけではない」として「社会通念」の判断を司法はすべき問題を言っている。ここの関連をどう解釈すればいいのか、疑問に思った。
塩沢弁護士;安全性のレベルをどの程度まで高く設定するかどうかということ、そのことと、社会がどの程度の安全性のレベルを求めるかどうか。社会が求める安全性は、社会通念上どの程度の安全性が想定されているのか社会通念を使ってレベルの程度を言うが、このどちらにしろ、専門的知見を有する規制委員会の判断を尊重すればいいのだと、裁判所はそういうことについてよく分からないので、社会がどの程度のレベルの安全を求めるかも、科学者の判断にお任せしようと言うのはおかしいだろうと。それは、科学的な知見、原子工学的な知見、それはもとより他にあるかもしれないが、もう少し、国民が今どのくらいのレベルのものを求めるのか、人文科学的な総合的な判断であって、そういうものを無視して、裁判所が専門的な判断だからとして、そこから逃れてしまうのはよくないよと。社会通念は裁判官が判断すべきだと言っている。私たちは、一番基本的なところは、安全性のレベルを、限りなく絶対安全に近い、絶対的な安全を求めてしまうと実は科学的でなくなるので、限りなく絶対安全に近いところを求めることを17ページで言っていることだ。論理的な展開が少しややこしくて、書いていながら私も、どうまとめていけばいいのかと分からなくなるところもあった。
12:05 司会;質問者は今の説明でいいでしょうか。他に「社会通念」について、意見はありますか。
他に質問はありますか。別の件ですが、次回は7月1日とかなり間があく。今までは2~3か月ほどの間隔であったが、今回は5カ月も間が空く、この点はどう考えればいいか。
大橋弁護士;3月から4月で裁判長が代わるので、新しい裁判官にしっかりこれまでの書面をよく読んでもらう。そのための期間だと思ってください。もう一つ、弁護団も議論して、じっくり議論を戦わしてやろうという方針で行くことにした。早くやろうということではない。今回の書面でも触れていますが、裁判所はいまあまりいい流れではない。運動の力、市民の力で、社会的通念もいかようにも変わる。3・11の前に悪い判決を出した裁判官も、市民も原発は怖い、という思いで、それが社会通念だと。それで判決を書いてくれればいい。政治も絡んでくるが、その間、世論も運動を強めてほしい。原告も増やして、しっかりがんばってほしい。
12:10 野沢(磐田);いままでは中電はあまりしゃべらなくて、何を考えているのかと思っていたが、今日は話した。放射能が怖くない、大したことではないという話と、安全対策をしていますよと。原告の主張にはまともに反論しないで、あんな突っ拍子もないことを言う。何か中電のねらいは?
阿部弁護士;中電が準備書面を出して、簡単な説明するというのは今回初めてではなくて、何回か前からそういう対応を取っている。以前はこちらが何を書いてもほとんど反論してこなかったが、最近はこちらの書面に何回か反論してきている。今日は低線量被ばくについてと、口頭で述べた工事のことや規制委員会の審査報告を、裁判長の求めに応じて説明している。なぜ報告させているかと言うと、あの裁判官としては、規制委員会の審査が終わって、合格なら合格の結論が出るまでは審議を急がないという方針を持っている。そのために、どこまで進んでいるかを報告させている。規制委員会の判断が出る前に判決を出すことは可能だ。福井の仮処分も規制委員会の結論が出る前に出している。担当の樋口裁判官も審査が終わるまでの間に事故が起こればどうするのだとして、決定を書いた。ただ浜岡はいま止まっている。すぐには動かないだろうと裁判官は判断している。そういう裁判所は結構ある。最近では、大飯原発の裁判も規制委員会の判断が出るまでは判断をしないと。我々もすぐに結論を求めるのは時期尚早であろうと、じっくりやろうと考えている。実は東京高裁の控訴審の裁判、浜ネットの人たちがやっている裁判、これはずっと前から何も進んでいない。これ以上は進めないと、弁護団と裁判所の暗黙の了解。本庁の裁判も争点整理は終わっているが、また新たな争点について主張していて、いつ証人尋問に入るか、どうなるか分からない。
12:15塩沢弁護士;関連しての発言を。毎回みなさんが今日裁判に参加されていて、みなさんの中では原発が風化していないからこそここに参加されている。浜岡原発の存在を感じながら暮らしている県下の人たちは決して風化してはいない。そうはいっても国民の中に風化現状がじわりじわりと広がっている可能性はある。全国で闘われている原発訴訟で脱原発が実現できるわけではなくて、脱原発の大きな運動の中での一つが訴訟での闘いだ。井戸裁判官という、3・11前に原発を止めた元裁判官が弁護士活動をして、全国で活躍されている。原発訴訟は運動の結実点。訴訟をやることでいろんな運動がつながっていく一つの核だと言っている。だから、まわりを風化させない裁判のとりくみも必要だ。ではどうすればいいのか。運動するみなさんに考えてもらうしかないけれども、必要があれば、今日のような話も呼んでくれれば講師活動もしたい。ここで紹介したい本がある。「原発ゼロ、やればできる」(小泉純一郎・太田出版)が出ている。全国の原発訴訟の河合弁護士が分かりやすい本だと勧めている。こういう本で勉強会をやることも一つの方法だ。いま脱原発で小泉さんも頑張っている。みなさんがんばりましょう。
12:20阿部弁護士;期日が先になったこと、そんなにのんびりしていいのかと。今やっているのは本裁判。本裁判は仮に勝ったとしても、確定するまでは原発は止まらない。仮に一審で勝っても、中電は当然東京高裁に控訴する。高裁で勝っても最高裁までいくと。その間に原発が動く可能性はある。そういうことで、裁判としてはどうやっていくかというと、規制委員会がOK出しそうだと、それが近づいてきたら、仮処分という、すぐに原発が止まる、その申し立てをする。仮処分決定がされると、本裁判は置いといて、原発は止まってしまう。いまどこの本裁判をやっていて、動きそうだとなれば、仮処分の申し立て、仮処分の審議を先行させて、仮処分決定をもらうと。あちこちで出ているが、仮処分の決定と、即時抗告というやりとり。その間は、本裁判は止まっている。その点も頭に入れておいてほしい。
大橋弁護士;野沢さんの、なぜ中電はしゃべり始めたのか、の質問。前から我々は、被告の言い分を言うべきだと原告は求めていた。その方が法廷の活性化になる。今日はその場で議論すると面白いが、発言に時間の制限をしてくる。
12:24永井;はじめての傍聴。使用済み核燃料も限界。プールのひび割れ、取水口から水が入ってこない心配もある。そういうことも訴えてほしい。止まっていても危ない。首都圏への影響、その人たちも原告団に入ってくるといい。
鹿野;宣伝を。三上さんB4カラーのチラシを作っている。安い値段で印刷が可能。あちこちで注文を取っている。原自連の顧問、落日の原発、断末魔の悲鳴。非常によく分かる。これを普及するのもいい。
斉藤(掛川);一週間前まで掛川中央図書館で写真展を。中学生、高校生が土日に来て、いい感想が出ていた。親は中電に勤めているが、放射線問題で原発問題にとりくみたい。福島に見学に行きたい。母親も子連れで来て、こういうことなのかと。おじいさん、おばあさんも、福島はもう終わったと思っていたと。
12:28林弘文(会の代表);塩沢弁護士がすばらしい準備書面を書いていただいて、非常によかった。読みごたえがあった。一人でも多くの人に読んでほしい。この中で佐野弁護士が書いていた、樋口裁判官、昨年の6月ですか、勉強会での文章を送ってもらって、感激して読んだ。裁判官には2種類、原発は怖いと感じた裁判官は積極的判決、そうでない裁判官は否定的判決を書くという話。もう一つ。1月21日毎日新聞、原発特集で、東芝、三菱重工、日立の動向を書いている。それをもとに調べてみると、WHは健在だと思っていたら、アメリカからイギリスへ、そして東芝へと、そして左前に。日立 ももう限界だと会長が述べている。メーカーが悲鳴を上げている。背後には何があるか。やはり福島の事故の怖さがあり、対策費はものすごくかかる、もう限界だと。それから、市民運動は、静岡で、金曜アクション 343回となった。非常に元気だ、これからもみなさんと一緒にがんばりたい。
12:32司会;それでは、今後の準備書面のことに触れて頂いて、終わりにしたい。
阿部弁護士;さきほど、使用済み核燃料は原発が動いていなくても非常に危険性があるのではないかとの指摘がありましたが、このことも展開している。原発の論点はたくさんある。あらゆる論点を主張すると、裁判官は消化不良になるので、最終的には一番勝てる論点に絞っていくことが重要だと考えている。ここが重要だと思う論点の一つは、避難計画の問題。最近出た伊方原発の高松高裁の決定でも、不備があると論究していた。浜岡原発の場合どうなのか。UPZ圏内に90万人以上いる。本当に事故があった時に、計画通り避難できるのか、これまでも何回か主張してきたが、次回までに時間があるので、また具体的なリアルなところを書面化したい。それと今日の塩沢弁護士の書面で少し出ていたが、突き詰めると、原発違憲論も考えている。
塩沢弁護士;一つだけ追加します。次回、裁判官が代わって、新しい裁判官にも、弁論更新で、こう言ってきたが、こういう点を押さえてくれと。弁論の機会がある。原告の立場から発言できることも考えている。新しい展開の場だ。たくさんの方の参加をお願いします。
12:35林弘文(会の代表);フランスで使用済み核燃料がどうなっているかというと、パリの東部の研究所を使用済み燃料の貯蔵庫にするといって、フランスではいま、おおもめしているとのこと。
司会;いろいろご意見ありがとうございました。次回もいろいろご意見を出してください。
12:36終了
(文責・長坂)
2019年2月4日(金)晴れ
10:00 浜松市地域情報センターホールに原告や傍聴者が集まり始めた。
10:30 裁判所内の部屋で傍聴抽選の予定であったが、全員が傍聴できた。
11:00 裁判が開始。
裁判長は上田賀代、右陪審は荒井格、左陪審は安藤巨、
訴訟代理弁護団計22名の弁護団のうち、今日の参加者は10名。
大橋昭夫、森下文雄、塩沢忠和、杉山繁三郎、阿部浩基、佐野雅則、平野晶規、北上紘生、栗田芙友香、青柳恵仁、
被告側は国と中電の14名。
11:00 裁判長;それぞれからの準備書面の確認。それぞれから補足説明がある。原告からは準備書面(27)被告中電から準備書面(18)の提出。その他の書証の確認。
11:02 裁判長;原告から補足説明を。
原告・塩沢代理人:準備書面(27)の概要についての説明(ここでは準備書面(27)をそのまま掲載する)。
(はじめに)「福島原発事故後の司法の在り方は、原告らはすでに、弁論更新に当たっての2015年7月6日付準備書面(12)で述べているところであるが、最近、裁判所の内部で福島原発事故が風化しつつあるのではないかとの危惧を抱かざるを得ない司法判断が続いている。そこで原告らは、かかる状況を踏まえ、改めて本書面にて、福島原発事故後の司法の在り方を問い質す。
合わせて、最近の司法判断が「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」等々、原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”として盛んに持ち出す「社会通念」に関連させ、「3・11福島原発事故後に求められている原発の安全性の程度・レベルをどう捉えるべきか」を論じた上で、その安全性の程度・レベル、あるいはそれをめぐる「社会通念」がどのようなものかの判断を、原子力規制委員会の「専門技量的裁量」に委ねることは誤りであり、裁判所こそがこれを正しく判断することが求められていることを主張する。
第1.リメンバー3・11福島第一原発事故
1.脱原発の世論や世界の動向に背を向ける安倍現政権の原発依存路線
(1)安倍晋三を首班とする自民公明連立政権は,昨年(2018年)7月に第五次エネルギー基本計画を閣議決定したが,そこでは「2030年に原発の電源構成比を20~22%にする」としている。しかし,2030年に原発の電源構成比を20~22%にするためには,30基程度の原発を必要とする。原発の寿命は2013年7月8日に施行された改正原子炉等規制法で40年とされた(40年ルール)。ただし,原子力規制委員会の運転延長の認可を得れば,一回に限って20年までの運転延長が例外的に認められている。40年ルールに従えば,2030年には,電力各社がかかえる原子炉は18基が残るだけになる。したがって2030年に30基程度の原発を稼働させるためには,12基分について新設や作り替え(リプレース)に加え,改正原子炉等規制法の例外規定を事実上原則規定にし,最大20年の寿命延長を図らねばならない。このように,将来にわたって原発に依存し続けることが現安倍政権の既定の路線であり,福島第一原発事故の現実を臆面も無く捨て去ろうとしている。
(2)一方,日本世論調査会が2018年2月24日,25日に実施した東日本大震災と東京電力福島第一原発事故に関する全国面接世論調査の結果によれば,「原発の安全性は向上したと思うが,深刻な事故の懸念は残る」と答えた人が56%に上り,「安全性は向上しておらず事故の懸念も残る」との回答も27%で,合わせて83%の国民が原発事故への不安を抱いている。また,今後の原発の在り方について,64%が「段階的に減らして将来的にゼロ」,11%が「いますぐゼロ」と答えている。このように,世論は圧倒的に脱原発である。
このような国民世論の動向は,他の多くの調査結果においても変わらない。安倍政権の将来にわたって原発依存をひた走ろうとする路線が国民世論に背を向けたものであることは明らかである。
(3)さらに、2019年1月17日、日立製作所はイギリスでの原発建設計画を正式に凍結した。安倍政権が成長戦略の一つに掲げてきた国を挙げての原発輸出戦略は、アメリカ、台湾、ベトナム、アラブ首長国連邦、インド、ヨルダン、トルコ、リトアニアに続き、日立によるイギリスへの輸出凍結によって総崩れとなった。原発ゼロを求める国民世論がその背景にあるとともに、今や原発ビジネス自体が経済的合理性を失いつつあることが世界的に明らかになってきていると言え、同月19日、朝日新聞は「原発輸出総崩れ、成長戦略の誤り認めよ」、中日新聞は「原発輸出、失敗認め戦略の転換を」と、いずれも社説で、政府に対して原発輸出戦略の根本的転換を求めている。
2.3・11後の司法の動向
(1)3・11がもたらした衝撃の大きさ
福島原発事故は,日本社会に大きな衝撃を与えた。科学技術の発展が人類の豊かな未来を約束するというドグマは打ち砕かれ,人類の行く末に不安が広がり,私たち一人一人が科学技術の便益にどっぷりつかった生活のありように反省を迫っている。そしてこの事故は,司法に対しても反省を迫るものであった。本件において原告らは、第5次の提訴に当たり、訴状6頁以下で「福島原発事故から論じる意味」をまずもって問い掛けている。3・11福島原発事故からまもなく8年目を迎えようとしている今、原告らは、改めてこの意味を問い掛ける。
(2)裁判官達の率直な述懐
(3・11前の)原告住民の申立を退けた裁判官たちが福島原発事故をどのように受け止めたか,その内声に触れることができる貴重な書籍が、「原発と裁判官-なぜ司法は『メルトダウン』を許したか」(朝日新聞出版)である。この中で裁判官たちは以下のように率直に述懐している。
・海保寬元裁判官(高浜原発2号機訴訟一審裁判長)
「裁判官時代の私には原発への関心や認識に甘さがあったかなと思うのです。専門家が言っているから大丈夫ということではなく、立ち止まって合理性をもっと検討することが必要だったのかなと思います。司法全体が安全性について踏み込んだ判断を積み重ねていたならば審査指針は改善されたかもしれない。もしそうしていれば、あの福島の事故は防げたんじゃないかな。」
・塚原朋一元裁判官(女川原発1,2号機訴訟一審裁判長)
「判決の中に繰り返し出てくる『社会観念上』の根拠となるのは何か」の問いに対し「あれは、当時の私の社会観念です。……これについては、いま、反省する気持ちがあります。わたしは裁判長をしていたとき、『なんで住民はそんなことを恐れているんだ?』『気にするのはおかしいだろう』と思っていました。その程度だったらいいじゃないかと考え、『無視し得る程度』という表現に至ったのです。」
(福島第一原発事故が起きたのを境に、人々は放射能に対して一挙に敏感になり、福島産品だけでなく、広く北関東の農作物まで避けようとする人たちも現れた。自分にも息子がいて、孫もいて、わざわざ北海道の牛乳を選んでいることについて)「息子たちのように、自分の幼い子どものことを考えてそういう行動をする……。これを不合理だとか不合理でないとか言ってみても始まらない。現実の経済活動がそうなってしまっているわけです。ということは『その程度だったらいいじゃないか』という、当時の私の感覚は相対的なものだったということになります。自分の子どもには『負の遺産』を負わせたくないという親の気持ちを思うと、わたし自身の考えも変わっていきました。」
・鬼頭季郎元裁判官(福島第二原発3号機訴訟二審裁判長)
「専門家らの判断を信頼していいとした点は正直、必ずしも一般論としてそうは言えなかったと痛感しています。いわゆる原子力村のなかは政・財・官・学がほとんど一体で、しかも、行政が電力会社になかなか逆らえる雰囲気ではなかった。言い訳になるかもしれませんが、そうしたことが裁判の当時はまだ明らかでなかった。はっきりしたのは、3・11後です。すると、検査そのものも、たとえ行政が『問題なし』としても疑ってみる必要があったかもしれません。株主の側がこうしたことを具体的に論証したのではなかったのですが、いまから考えると、専門家らの判断を信頼しすぎた点には問題があったと思います。」
(3)3・11後の司法判断の流れ
(この点についても原告準備書面(26)ですでに概観しているが,主要な判決・決定について再度取り上げる。)
ア.福島原発事故が起こった後,原発の運転差止めを求めて多数の訴訟が提起され,既に相当数の判決・決定が出されている。そうした中で,大飯原発3,4号機の運転差止めを命じた福井地裁平成26年5月21日判決は,「かような(福島原発事故のような)事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい」と裁判官としての覚悟と矜持を示し,従来の判断枠組みに捉われない独自の判断枠組みを採用して請求認容判決を導いた。
イ.また,高浜3,4号機の運転禁止を命じた大津地裁平成28年3月9日決定は,福島原発事故の原因究明が今なお道半ばであるのに津波想定の甘さだけを問題にする原子力規制委員会について,「そもそも新規制基準策定に向かう姿勢に非常に不安を覚える」と批判し、「新規制基準及び本件各原発に係る設置変更許可が直ちに公共の安寧の基礎となると考えることをためらわざるを得ない。」と断じた。日本の司法では,行政が行う施策については,よほどのことがない限りこれに異を唱えない司法消極主義が幅を利かせているが,福島原発事故前の原発運転差止め訴訟における司法のありように対する反省に基づき,一歩前に踏み出そうとした意欲的な判断であったと評価できる。(2017年12月・日本科学者会議主催・原発問題全国シンポでの井戸洋一弁護士の基調講演より)
ウ.さらに伊方原発3号機について,平成30年9月30日までの期限付きではあったが,広島高裁平成29年12月13日決定は,火山噴火リスクを根拠に運転を差し止めた。3・11後に原発運転差止めを認めた初めての高裁決定であった。この決定は,原子力規制委員会が最新の科学技術的知見に基づいて定めた火山ガイドが考慮すべきと定めた自然災害について,社会通念を根拠に限定解釈をして判断基準の枠組みを変えることは,原子炉等規制法及びその委任を受けて制定された新規制基準の趣旨に反すると判断した。この決定は,独立した司法が,3・11後の地震・火山大国日本において,国民を破局的災害から守るために果たすべき役割を正確に認識して下された,真に画期的なものであると評価できる。(判例時報2354号120頁以下「独立した司法が原発訴訟と向き合う③」海渡雄一弁護士の論説より)
エ.このような動きに危機を感じた原子力規制委員会は,平成28年6月29日「実用発電用原子炉に係る新規制基準の考え方について」という文書(以下「考え方」という。)を公表した(その後同年8月24日、平成29年11月8日、平成30年12月19日に各改訂)。この「考え方」は,全国の訴訟で原告住民側が指摘している新規制基準の問題点について,これが合理的であると主張するものであり,被告国や電力会社は,本件を含む全国各地の訴訟で、これに依拠しての主張・立証を展開している。
そうした中で,上記ア,イ,ウの三つの判断はいずれも上級審で覆された(アにつき名古屋高裁金沢支部平成30年7月4日判決,イにつき大阪高裁平成28年3月9日決定,ウにつき広島高裁平成30年9月25日決定)。名古屋高裁金沢支部及び広島高裁が根拠としているのが,後に詳述する「社会通念」論であり,大阪高裁に至っては,規制委員会の「考え方」をそのまま引き写した関西電力の主張そのまま(判例時報2334号6頁の解説)の“コピペ”決定である。
(4)司法判断の分かれ道はどこにあるのか
前記福井地裁平成26年5月21日判決を下した裁判体の裁判長であった樋口英明元裁判官は,地震を理由に原発の差止めを認めた自分とそれを認めなかった裁判官のどこが違うかについて,次のとおり述べている(「法と民主主義」2018年12月NO.534・17頁)
「3・11後に原発訴訟を担当した裁判体のうち、地震を理由に差止めを認めたのは私の裁判体と大津の山本善彦裁判官の裁判体の二つだけですが、差止めを認めなかった裁判体は十指に余るのです。これらの裁判官と私のどこが違うのかというと、心底、原発が危険で怖いと思っているか否かの違いです。」
3.原発事故災害の途方もない危険性を改めて再確認すべき
(1)福島原発事故は「いくつかの良き偶然」が重なった事故であること
ア.現に発生し今なお続いている福島原発事故の被害の甚大さはここで改めて述べるまでもない。ここでは,樋口元裁判官が「心底、原発が危険で怖いと思っている」と述べていることに関連すること,即ち,「これ以上はないほど大きな被害だ」と言いたい福島原発事故の被害状況ではあるものの,実はこの事故は,いくつかの良き偶然が重なった結果として「この程度の被害で済んだ」ものであったことを,以下のとおり指摘する(この点は,本来もっと大きく取り上げられるべき問題であるにもかかわらず,なぜか意外と知れ渡っていない)。
イ.まず,事故当時,4号機の使用済み核燃料貯蔵プールには大量の使用済み核燃料が入っていたところ,全電源喪失により循環水の供給が停止し,そのため,使用済み核燃料の加熱による放射性物質の大量放出が危惧されていた。しかし,同プールに隣接する原子炉ウエルに張られていた水が,プールと原子炉ウエルを隔てている壁がずれてプールに流れ込んだため,放射性物質の大量放出には至らなかった。壁がずれた原因が地震の衝撃によるものか,水素爆発の衝撃によるものか,それとも水圧差によるものかは未だ不明である。しかも,原子炉ウエルの水は工事が予定よりも遅れたために残っていたもので,本来の工事予定だと四日前に水は抜かれていたはずであった。
原子力委員会委員長の近藤駿介氏は,当時の菅総理からの命により福島原発事故から想定される被害規模の見通しを報告したが,被害想定のうち最も重大な被害を及ぼすと想定されていたのは,この4号機の使用済み核燃料貯蔵プールからの放射能汚染であり,東京都のほぼ全域や横浜市の一部を含む半径250キロメートル圏内が避難区域になり,この範囲は自然に任せておくならば数十年は続くとされた。この被害想定が,「天の配剤」とでもいうべき良き偶然の重なりによって現実化を免れたのである。
二番目に,4号機に水素爆発が起こったものの,使用済み核燃料貯蔵プールの保水機能はなんとか維持され,かえって水素爆発によって原子炉建屋の一部が吹き飛んだため,そこから水の注入が容易となった。
三番目に,3月15日になると,2号機の格納容器内の圧力は限界を超えて高まり,放射性物質の大量放出を伴う格納容器の圧力破壊の危険が高まった。吉田所長も一時圧力破壊を覚悟し,この際,吉田所長の脳裏には「東日本壊滅」という言葉がよぎったと言う。しかし幸いにも格納容器は圧力破壊を免れた。格納容器のどこかに脆弱な部分があったためそこから圧力が漏れ,圧力破壊に至らなかったとの推測がされているが,その明確な原因も未だ不明である。(以上、前記「法と民主主義」2018年12月号)
ウ.このように,我が国にとって僥倖の連続があったにもかかわらず,福島原発事故は我が国始まって以来の国土の荒廃をもたらし,10万人を超える人々の生活を奪った。しかしこれらの僥倖がなかったら事故による避難民の数は3000万人を超え,東日本壊滅という吉田所長のおそれていた事態が現実化したのである。
(2)原発事故災害の例えようもない危険,その被害の絶大さへの想像力を持つことが原発訴訟に取り組む
上での出発点となるべきこと
ア.判例時報は,その2345号(平成29年11月11日号)以降で,「岐路に立つ裁判官(8)・独立した司法が原発訴訟と向き合う」と題しての連続特別企画を組んでいる。その最初の論説を担当した河合弘之弁護士は,「第1.原発訴訟の重要性」の冒頭,「今の日本の社会問題、政治問題、経済問題の中で一番重要な問題は、実は原発問題である。それは大げさだという人がいるかもしれないが、事実だ。なぜならば、原発の重大事故は、全ての社会的な基礎を覆すからだ。……全ての裁判の中で原発訴訟が一番重要だというのは決して大げさな言い分ではない。」とする。
この点につき同弁護士は,脱原発弁護団のメーリングリスト上で,さらに具体的に次のように訴えている。
「社会には種々の問題がある。雇用、教育、収入格差、福祉、安全保障等々である。それらは各々重要であり、真剣に取り組まなければならない。しかし、その社会問題の中で、最も重要なのは原発の問題である。なぜならば、原発重大事故はすべての社会問題を「吹き飛ばす」からである。原発重大事故が起きれば、職場は崩壊するから、労働、雇用どころではなくなる。学校は無くなり、学生は避難するから教育が成り立たない。放射能はすべての資産を無価値にするから、富裕層も貧困層も経済的に成り立たなくなり、収入格差是正どころではなくなる。要介護老人や幼児の保護も、老人と子供は避難しなければならないので、福祉どころではなくなる。原発重大事故が起きれば、国は事故の鎮圧と被害の救済に忙殺され、また、国力は極限まで低下するから他国が侵入してきたときには無力である。すなわち安全保障どころではなくなる。」
これは,原発差止め訴訟の申立人側代理人を担う弁護士の立場から,原発事故災害の危険性=原発訴訟の重要性を指摘するものであるが,同じ事は,原発差止め訴訟を担当する裁判官に対しても指摘し得るものと考える。
イ.「心底、原発が危険で怖いと思った」樋口元裁判官は,3・11後はじめて原発差止め判決を下した判決理由の中で次のように判示する。
「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通して十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」
裁所の内部で福島原発事故が風化しつつあるのではないのか,裁判官は再び司法消極主義の殻に閉じこもろうとしているのではないかとの危惧を抱かざるを得ない今だからこそ,間もなく8年目を迎える3・11福島原発事故は何であったのか,何が明らかとなり,しかし今なお何が明らかになっていないのかを,改めて見つめ直すことを裁判官に対し切に望むものである。
第2.原発に求められる安全性の程度・レベルはどのようなものか
1.「原発に求められるのは絶対的安全性ではなく相対的安全性である」とした上でのいわゆる「社会通念」論について
(1)「一般に科学技術の分野において,絶対的に災害発生の危険がないといった“絶対的安全性”というものは達成することも要求することもできない」とされることについて
ア.元々,原子力を推進してきた政府(とりわけ経産省)や電力会社は,柏崎刈羽原発が新潟県中越沖地震で設計上の想定を大幅に上回る大きな揺れにより火災を起こした時も,日本の原発は地震に強く,絶対に安全であるかのように強調していた。福島原発事故以後は,さすがにこのような主張は聞かれなくなったが,日が経つにつれて「原発が絶対安全と言ってきたことは間違っていた,そのことはお詫びする」とした上で,「しかしながら,世の中に絶対安全などないでしょう,航空機や自動車も事故を起こすけど,それでも人はそれを利用するでしょう,要はどの程度安全が保たれていればよいかという相対的なものであって,原発だけが特に危険とするのは間違っている」として,原発に特に高度の安全性を求める意見に対して「ゼロリスク論」というレッテルを貼り,「原発に絶対的安全を求めるのは非科学的である」と言った喧伝がなされるようになった。
イ.このように,科学技術を利用した各種の装置・施設という点では原発も航空機や自動車と同一であり,そこでの安全性とは相対的なものであるとした上で,「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されていれば安全」とか「社会通念上無視し得る危険は考慮しなくていい」とか,「基準地震動(あるいは「クリフエッジ」)を超える地震が来る可能性は社会通念上無視できる程度の確率にとどまる」等々,最近の司法判断の中に,原発に求められるべき安全性の程度・レベルを引き下げるためのいわば“キーワード”に「社会通念」なるものが使われるケースが多発している。しかし実は,これは今に始まったことではない。3・11以前の裁判例においても,被告電力事業者が立証すべき「安全性に欠ける点のないこと」が「原発の危険性が社会通念上無視し得る程度に管理されていること」と言い換えられるのが通常であり、ここに「社会通念」という概念が枕詞のように使われていた。しかも、「原発の危険性が社会通念上無視し得る程度に管理されているか否かは、審査基準の合理性と適合性判断の合理性に置き換えられ、それは、基本的に「専門家」が判断することと認識されていたのである。」(「法と民主主義」NO.508・2016年5月号井戸謙一弁護士「原発関連訴訟の到達点と問題点」より)
ウ.本件において被告中部電力も,平成26年5月21日福井地裁判決(樋口裁判長のもとでの判決)が「大きな誤りを犯した不当なものである」として提出した平成26年11月7日付準備書面(4)の「3 科学技術の利用に関する基本的理念」の項で,この「基本的理念」を正しく判示する裁判例として、以下の2件を含む4件を挙げている(ここでは便宜上,以下の2件の被告引用判示部分の核心部分のみ挙げる)。
①水戸地裁昭和60年6月25日判決・判例時報1164号119頁(日本原子力発電株式会社東海第二発電所原子炉設置許可処分取消請求事件)
「そもそも,人間の生命,身体の安全は,最大限の尊重を必要とする法益であることは改めていうまでもないが,……人間の生命,身体に対する害が,又はこれを生じる危険性(可能性)が……絶対的に零でなければ人間社会において存在を許されないとするならば,放射線のみならず,現代社会において現に存在が受容されているおびただしい物質,機器,施設等がその存在を否定されるべきこととならざるをえない(たとえば,水力発電所も火力発電所も例外ではありえない)。」
②東京高裁平成13年7月4日判決・判例時報1754号46,47頁(東海第二発電所原子炉設置許可処分取消請求控訴事件)
「科学技術を利用した各種の実用機械,装置等にあっては,程度の差こそあれそれが常に何らかの危険を伴うことは避け難い事態ともいうべきところであり,ただ,その科学技術を利用することによって得られる社会的な効用,利便等の対比において,その危険の内容,程度や確率等が社会通念上容認できるような水準以下にとどまるものと考えられる場合には,その安全性が肯定されるものとして,これを日常の利用に供することが適法とされることとなるものと解すべきである。この理は,原子炉施設における安全性の問題についても基本的に異なるところはないものというべきである。」
(2)原発過酷事故災害と一般産業設備や航空機・自動車等の事故災害とを同一レベルで論ずることは明らかに誤りであること-原発事故災害の異質性,異次元性-
ア.原告らも,原子炉等規制法を始めとする我が国の原発関連立法が,「原子力発電に一定の潜在的な危険が内在することは前提として,そのような危険を顕在化させないよう管理していくことを念頭に置き,そのようにして災害の防止に支障がないものとすることができる限り原子炉の設置を認めるとの立法」であること,そしてそれ故に「仮に論理的ないし抽象的,潜在的な危険性が少しでもあれば原子力発電所の建設及び運転は一切許されないというのであれば,それは原子炉等規制法の採った上記の立法上の判断そのものを否定することになること(被告準備書面(4)6頁)」については,この立法を所与の前提とする限り,これを争わない。また,「一般に科学技術の分野においては,絶対的に災害発生の危険がないといった『絶対的安全性』なるものは達成することも要求することもできないものである」ことも,一般論としてはこれを認める。
イ.しかしながら,「科学技術を利用した各種の実用機械・装置等」の中にあって,唯一原発だけは,万一重大事故が発生した場合の危険性において,一般産業設備や各種交通事故のそれとはおよそ比較すること自体も困難な,異質性・異次元性を有している。この点をあいまいにしたままの“相対的安全性”論や“社会通念”論は断じて許されない。
①まず,一般産業設備との比較で言えば,一般産業設備では,火災などが発生して手がつけられなくなった場合に,そのまま放置しておいても周辺住民にとりかえしのつかない重大な被害を及ぼすことはほとんどない。たとえば,2011年3月11日に発生した東日本大震災に際して,コスモ石油(株)千葉製油所の球形タンク17基が大火災に遭遇したが,10日間燃え続けるにまかせたのちに自然鎮火した。それでも,周辺住民にはほとんど被害を及ぼすことはなかった。
このことを考えれば,被告が取り上げている前記①の判決(水戸地裁昭和60年6月23日判決)が,「(絶対的安全を求めた場合はその存在が否定されるべきことになる点では)水力発電所も火力発電所も例外ではありえない」としている点は明らかに誤っている。原発には絶対的安全を求める「ゼロリスク論者」は,火力発電所にまでそれを求めることはしない。なぜなら,火力発電所に仮に重大な火災事故が発生したとしても,上記コスモ石油製油所の大火災同様,燃えるにまかせたのちに自然鎮火させるまでであって,それによって電力会社は多大の損失を蒙るとしても,周辺住民にはほとんど被害が及ばないことは十分あり得るからである。しかし原発過酷事故はそうはいかない。この点の決定的違いはいかんともし難い。
②さらに,産業設備であれ自動車のような交通機関であれ,事故が発生した場合の後処理についてあらかじめ被害を想定しておいて,被害者に対してどのような補償を行うかをルール化しておくことが社会的に合意されている。産業設備の場合は,設備の回復のために火災保険契約がなされ,第三者の被害賠償のためには施設所有者管理者賠償責任保険を掛けておく。自動車事故に際しては,きめ細やかな保険規程が定められており,加害者になっても被害者になっても,受け入れ可能な慣行が社会的に確立している。「危険性の相当程度が人間によって社会的に管理されている」とは,こういうことを言う。
しかし原発の場合は,それらとは根本的に条件が違う。原発での過酷事故が発生した場合には,初期の冷却を失敗すると,被害は敷地内にとどまらず広大な範囲に放射能が飛散して住民の命と健康を脅かし,環境を汚染して長期間にわたって居住困難にする。事故の被害規模があまりに大きく,事前に損害賠償制度や事故処理体制を確立して国民的合意を行うことはおよそ不可能である。
③より根本的な異質性・異次元性を指摘するならば,それは言うまでもなく,原発が原発であるが故に内在させている潜在的危険性としての大量の放射性物質の存在である。
即ち,安全性の観点で原発が航空機や自動車と決定的に異なるのは,その制御の困難さと同時に,大量の放射性物質の存在(広島型原爆の300倍と言われている)である。事故の初期状態で収束できれば良いが,事故の進展とともに放射性物質の漏洩をともない,作業環境が厳しくなり,事故収束がますます困難になる。火災でいえば初期消火に失敗し,消火が不可能な状態に相当する。この「しきい値」に相当するのが炉心溶融である。原発の安全設計思想はこの炉心溶融を起こさないようにすることにあったが,福島原発事故により、現実の原子力プラントが炉心溶融すなわち過酷事故を防ぎ得ないことが明らかになった。
原発は確率的な安全に頼った設計であり,多重防護や深層防護をどんなに強化しても,大規模な事故の発生可能性は残る。しかも,事故の状況によっては,自らの命を省みずに事故に立ち向かう“決死隊”の犠牲の上にしか事故収束ができない状況に陥る。航空機や自動車でも事故の可能性はあるが,最悪の事故の被害の大きさは比較にならない。一回の事故で国家の存立すら危ぶまれる規模の事故を起こすことなど,万が一にも許されるはずがないし,また起きた時の損失の大きさを誰も補償することができない。(以上「原発ゼロ社会への道2017」184頁以下「原発の安全とリスク評価」より)
(3)今日における「社会通念」の意味合い
以上のことは,3・11以前にも,少なからぬ科学者や有識者により繰り返し指摘され続けていたし,数々の行政訴訟や民事差止め訴訟で原告らが,累々たる敗訴判決にもめげず訴え続けたことである。しかしそれらは,国(とりわけ経産省)や電力会社が振りまく“安全神話”にかき消され,“社会通念”にはならなかった。
だがしかし,樋口元裁判官が言うとおり,原発事故が「心底危険で怖いこと」が3・11福島原発事故を通じて十分に明らかとなった今や,あるいは同事故を受けて新たに付け加えられた原子力基本法第2条2項が,「前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」と定められた今,さらには,原発の再稼働に反対する意見が常に世論の過半数を占めている今日,これまで原発に求められる安全性の程度・レベルを低くする意味合いで使われてきたこの「社会通念」の意味合いを,根本的に転換することが求められている。
2.本件浜岡原発に求められるべき安全性の程度・レベルに付いての原告らの主張
以上のごとく,原発事故の例えようのない深刻さが明らかになった今日,それでもこの社会が原発の運転を許容するのであれば,その場合の条件として原発が備える安全性は極めて高いもの,すなわち,確立された国際基準が求める重大事故の発生確率を10万年に一度程度にまで維持することが求められていると解釈することこそが,今日の「社会通念」である。そしてこの理は、樋口判決が「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえ」、したがって原発訴訟においては「かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるかのかが判断の対象とされるべき」としていることと同じであり、且つこの理は、後述する平成4年
10月29日の伊方原発最高裁判決が、原子炉等規制法が定める安全審査の目的を「原子炉施設の安全性が確保されないときは、……深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、深刻な災害が万が一にも起こらないようにするため」としていることによって裏付けられている。この最高裁判決が、その6年前の1986年(昭和61年)チェルノブイリ原発事故、さらにその7年前の1979年(昭和54年)のスリーマイル島原発でのメルトダウン事故という二つの重大事故の影響を受けていることは明らかである(同判決に関する高橋利文最高裁調査官による判例解説は、両事故の発生を引用の上「事故以来、原子力発電の安全性に関する社会的関心は、次第に高まっているようである」としてい
る)。
原告らは、このような時代背景の中でこの判決は出されたことを忘れてはならないと考える(判例時報2354号・122頁、「独立した司法が原発訴訟と向き合う③-伊方原発最高裁判決の再評価」海渡雄一弁護士)。
第3 原発に求められる安全性の程度・レベルを,だれがどのように判断すべきか
1.今なお司法判断の基本的枠組みとして下級審を拘束している平成4年10月29日伊方原発最高裁判決について
(1)伊方原発訴訟は、我が国で最初に提起された原発訴訟であり、内閣総理大臣が1972(昭和47)年11月28日に行った伊方原発1号炉の設置許可処分の取消を求める行政訴訟であった。
提訴から20年を要して1992年(平成4年)10月20日に下された最高裁判決(判例時報1441号37頁)の結論は、原告住民の請求棄却を確定させた判決であったが、最高裁はこの判決の中で、原発行政訴訟における司法審理のあり方についての基本的枠組みを示した。そして、この行政事件に関する最高裁判決が,運転差止めの民事訴訟においても,司法判断の基本的枠組みとして下級審を拘束することになり、それが3・11後の現在もなお続いている。
(2)同最高裁判決は、20年間も頑張り続けた末に「請求棄却」を最終的に確定させられた住民側の弁護士にとってはすこぶる評判の悪い判決ではあったものの、よく検討してみると、本件原告らからみて評価すべき、以下のごとき積極面もあった(これが、世界に衝撃を与えたスリーマイル島及びチェルノブイリという二つの原発過酷事故の深刻被害を踏まえてのものであったことは、前述のとおり)。
即ち、まず第一に、原発関係法規が定める安全審査の目的を「原子炉施設の安全性が確保されないときは……深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、深刻な災害が万が一にもおこらないようにするため」としている。
第二に、どの時点の技術水準で違法性判断をするのかについて、裁判所が依拠すべき科学的知見は、国の設置許可処分時のそれだけでは足りず、その後に判明した「現在の科学的技術水準に照らし判断する」としている。
第三に、次のように判示して、立証責任を事実上被告国(行政庁)に転嫁している。
「被告行政庁の判断に不合理な点がないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証をつくさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される」
(3) 上記のごとき評価はできるものの、しかし、この最高裁判決がその後の下級審に絶大な影響を及ぼした点は、以下のごとき原発訴訟における司法判断の審査手法・判断のあり様に関する判示であった。
①「原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門的技術的な審議及び判断を基にしてなされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行わるべき」
②判断の対象は,①用いられた安全審査基準に不合理な点があるか,②基準に適合するとした調査審議及び判断過程に看過し難い過誤・欠落があるか否か。
③そしてその判断は,「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的・専門的技術知見に基づく意見を尊重」して行なう。
(3)さらに、この最高裁判決が招いたいわば弊害(副産物)として、「この最高裁判決の趣旨とは異なり,実質的には原告(住民側)に立証責任を再転換する,いわば『変質した伊方最高裁判決枠組み』を生み出した」との指摘もされている(法と民主主義2018.8.9井戸弁護士)。3・11後の最近の司法判断が、まさにこれである。
2.「社会通念上無視し得る危険」か否か=「危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されている」か否かは,司法(裁判所)こそが判断すべきであること
(1)従来,裁判所には科学的専門技術的な判断力に限界があるから,原発に求められる安全性は裁判所
には決することができず,科学的専門技術的な知見を有する科学者を擁する行政庁こそが安全性について妥当な判断を行い得るという発想が裁判官の間に存在し(後述する司法研究所での特別研究会における裁判官の発言参照),これが専門技術的裁量の実質的な根拠とされてきたようである。しかし,原発の安全性はあくまでも「社会」が求める安全性であって,「科学者」が求める安全性ではない。科学者は,自然のしくみを解明する(リスクの有無や程度について評価する)ことに関しては専門的な知見を有するが,そうやって科学によって導き出されたリスクについて,社会が受容可能であるかどうかについては専門的な知見を持たない。後者の問題は,むしろ社会学,倫理学及び法学などの人文・社会科学の専門的知見によって決せられるべきであって,司法にはその点についての専門的知見の欠如から生じる判断力の限界はなく,本来その専門性を発揮すべき領域のはずである。
(2)そしてこのようなことは、原発訴訟以外の一般的裁判において,我々法曹が普通に経験している事
柄である。建築紛争しかり,医療過誤しかり,刑事裁判における責任能力問題しかりであり,司法(裁判官)は,その道の専門家,科学者の工学的・医学的・精神科的判断を尊重してそれを前提としつつも,予見可能性,結果回避可能性,法的文脈における是非弁識能力の有無等,科学的合理性判断とは異にする社会的合理性に関する価値判断をして来ているのである。ところが,こと原発になるとなぜか(前記伊方原発最高裁判決が科学的専門技術的判断,裁量への「尊重」を求めていることの弊害なのか),科学者が原発の安全性に関する結論まで述べ,裁判官は、この「専門技術的裁量」を根拠に,常に行政庁の判断を尊重するという姿勢になってしまっているのではないのか。これではもはや、司法は何の判断もしていないに等しい。
(以上,判例時報2361号「独立した司法が原発訴訟に向き合う④」中野宏典弁護士の論説より)
(3)浜岡原発の危険性を心底怖いと心配する原告らは,「規制委員会の適合性判断をクリアすれば安全で
ある」とする被告中部電力の主張に納得できないが故に本訴を提起しているのである。その原告らに対し,裁判所が「いやいや,原発問題に関する専門技術的知見を有する規制委員会が基準をクリアしていると判断しているのであるから心配しなくてもよい」との判決を下したところで,原告らが納得するはずがなかろう。原発の稼働について,福島第一原発事故以前の裁判例は,万が一の事故など起こらないだろうという安全神話のもとで,人格権の問題とは言いながらも,どこかエネルギー政策の問題であるかのように捉えてきた。しかし,福島原発事故は,これが極めて多数の人々の生命や健康,生活していた土地を,そこで育んできた関係性も含めて丸ごと奪われるという人格侵害なのだということを否応なく突き付けた。国家や第三者による人権侵害を救済することこそが司法の主要な目的である以上,たとえ原発の推進が国策であったとしても,積極的に人権救済のための判断を行わなければならない。
(4)原子力規制委員会には「社会通念」の評価についての専門技術的裁量はないこと
規制委員会は,前述の「考え方」の中で,同委員会の判断が「社会通念」であるかのごとく,「相対的安全性の具体的な水準は,原子力規制委員会が,時々の最新の科学技術水準に従い,かつ,社会がどの程度の危険までを容認するかなどの事情をも見定めて,専門技術的裁量により選び取るほかはなく,原子炉等規制法は,設置許可に関わる審査について,原子力規制委員会に専門技術的裁量を付与するに当たり,この選択をも委ねたものである。」としている。
しかしこれは明らかに誤っている。原子力の専門家は,過酷事故の確率を○万年に1回と計算することはできるかもしれない。しかし,社会通念の評価は,原子力工学や地震学等の自然科学だけではなく,哲学,宗教学,社会学,歴史学等の総合的判断,いわゆる「トランスサイエンス」,「科学に問うことはできるが,科学によってのみでは答えることのできない問題」である。原子力規制委員会にはその専門性はなく,司法(裁判所)こそが判断すべき問題である。裁判所は,原発のリスクと社会が受ける利益について検討し,日本の社会がそれでも原発のリスクを受け入れているのか,受け入れているとしたら,どこまでそのリスクを極小化する必要があるのかを,正面から考えなければならない。
(2018年7月第4回全国研究・市民交流集会inふくしま「原発と人権」での井戸謙一報告「原発差止め訴訟判決の成果と課題」より)
3.司法消極主義の殻に閉じこもっていることは許されない
(1) 3.11原発事故以前において,いわゆる“原子力ムラ”の中心的立場の1人であった,元内閣府原子力委員会委員長代理の原子力工学博士鈴木達治郎氏(現・長崎大学核兵器廃絶研究センター長)は,昨年(2018年)7月に福島大学にて開催された第4回「原発と人権」シンポジウムでの基調報告で,「長い間原子力政策に関わり,福島原発事故の時には政府の原子力委員会にいた1人として,深く反省して謝罪申し上げたい」とした上で,「原発事故の教訓とは何か」とのテーマで以下のとおり発言している(「反核法律家」97号,2018年冬号より)。
「まず,安全神話をつくった最大の原因の一つとして,想定できることしか想定していなかったということです。今後これを変えなくてはいけない。事故は必ず起きるという前提で,すべての対策を練っておくことが大事なのだと,私は今,原子力の関係者に言っているんですが,どうも想定できないことを想定するのを嫌がる方が多い。しかし,これが直らないと,原子力の安全性というのはなかなか保てない。二つ目に重要なのは,安全性を図る評価の問題です……我々工学部の人間は,安全性を「リスク評価」で判断します。事故確率と結果を掛け合わせる評価法ですが,これでは,原子力の安全性が他のエネルギー技術に比べ非常に高いことになってしまいます。福島の事故で,工学的な「リスク評価」だけでは安全性を評価できないことを身をもって知りました。これから原子力の「リスク評価」をするとき,安全性を評価する時,工学的観点だけでは不十分で,経済,社会,倫理,宗教,文化,すべてを含めてリクス評価をしなければいけないということです。」
(4)このように、3.11以前の「原子力ムラ」における中心的存在であった原子力工学科学者が,かくのごとく率直な反省の立場を表明し,かつての原発安全神話を告発する発言をしているのである。しかるに裁判官が,「人間の力ではゼロにすることのできない事故のリスクにつきどこまでの確率なら許容するのかというのは,専門技術的裁量の問題ではなく,政策的決断の問題であって裁判所の判断になじまないのではないか」(平成25年2月12日司法研修所における平成24年度特別研究会(第9回・複雑困難訴訟)における某裁判官の発信)などとし,司法消極主義の殻に閉じこもっていることが許されていいはずがない。
本件原告らは、当裁判所がこの問題を真正面に受け止め、司法に寄せられている国民の期待に応え得る判断を示すよう、切に求めるものである。
以上
11:23 裁判長;中電からも補足説明を。
被告中電・村上代理人:準備書面(18)の概要についての説明(被告の準備書面より抜粋)。
原告は放射線に被ばくすれば、その被ばく線量を問わず人体に深刻な影響が生ずるかのように主張する。原告らの主張が、低い被ばく線量の範囲における、放射線の人体への影響についての理解を欠くものであることを明らかにする。
7ページのところ、放射線は、人体の臓器や組織を構成する物質の原子に電離や励起を生じさせることにより、細胞の遺伝子を構成するDNAを損傷する場合があるが、人体にはDNAの修復作用等のがんの発生を防ぐ多数の仕組みが備わっている。低い被ばく線量の範囲においては、被ばくによるがんリスクなどの上昇は見出しがたい。
14ページ、我が国の放射線防護に係る法令においてもICRP勧告を尊重する考え方が取られている。ICRPは、疫学調査等で得られたデータを踏まえた国連科学委員会の科学的知見を基に、低線量の被ばくの範囲では、放射線ががんリスクに与える影響は顕かになっていないとしている。ICRP勧告は、いかなる被ばく線量でもリスクが存在するという予防的な仮定のもと、自然放射線以外の被ばく線量限度を年間1mSVとしている。我が国もこの立場を取っている。原子力発電所周辺の公衆被ばくをこれにするように定めている。
11:25 裁判長;中電から工事の進捗状況を。
被告中電・4号機の安全性対策工事は、平成30年9月以降の溢水防止対策工事である循環水ポンプ周辺工事、そして火災防護工事としての油漏えい対策工事、格納容器内のパラメーターの計測対策の強化、について、県と御前崎市に点検を受けて、HPで公表している。3号機と5号機は、特に報告なし。原子力規制委員会の適合審査について。9月以降、地盤、地震、津波のうち、①地震頻度、②プレート間地震による津波評価、③内陸拡大の振動評価、についてそれぞれ1回、合計3回。プラント関係では、地震・津波の審査はおおむね見解が取りまとめられたのち、審査を再開する。3つの審査の結果については、内陸拡大地震の振動評価について、内陸拡大地震そのもの評価は理解が得られた。プレート間地震との連動について審査が行われる。①と②については、規制委員会からのコメントがなされ、審査が続行している。
11:29 裁判長;今後について。
原告;追加がある。準備書面を用意する。
被告・中電;引き続き主張したい。
被告・国;予定なし。
11:31 裁判長;次回の日程は、7月1日(月)11:00~第一法廷で。書面は一週間前に提出を。
11:31終了
11:38 地域情報センターで報告集会
司会・高柳;司会の高柳です。今日の裁判のまとめを行います。静岡県全体から参加されていますが、
意見交換する場がなかなかなく、弁護士のみなさんに質問する機会もあまりないので、できるだけ
分からないことも含めて、いろいろ意見を出してください。
はじめに、原告側の準備書面について、塩沢弁護士からお願いします。
塩沢弁護士;裁判所から15分を目標にと言われた。20分かかった。具体的なことを話すと、時間がかかりすぎるし、意を尽くせないところはありますが、話をしました。私が今日話したことは、昨年9月、裁判を支援する会の総会での話と、12月の自由法曹団での学習会で話したことをもとにしています。これは専門的・科学的な話でなく、文科系の私でも話せる内容にしています。今日は被告の方が、もぞもぞと話していましたが、あまりよく分からない。これからも、みなさんが聞いて分かるような話をしたい。
規制委員会がいま適合審査中で、中電も課題がいっぱいあって、それに対応したことを行っている。適合審査中は裁判所も判決を出さないと思う。裁判長もこの4月には代わる。裁判所が判決を書くのは先であろうと判断し、その間に、科学論でなく、主張すべきことは主張しようと考えている。今日の私の話はその最初の話です。
司会・高柳;浜岡原発永久停止裁判県西部の会の総会で塩沢弁護士が講演をされた。自由法曹団でも講演をされた。
大橋弁護士;中部電力の今日の準備書面(18)のことを、阿部弁護士から付け加えてもらう。
阿部弁護士;放射線の人体に対する影響についてという中電の準備書面。原告の主張が間違っているというものだった。原告の書面では、どんなに低線量でも人体に対して影響を与えて、がん等を発症させるというもので、一定量を超えなくては発生しないと言うものではなくて、低線量なりの人体への悪影響があるのだという主張をしている。
中電は今回の準備書面で、低線量では、人体に影響を与えていないという準備書面を出している。これについては、我々も準備書面を出しており、これについてはこれ以上に反論することはないと思いますが、どこかで反論したいとは思っている。
司会・高柳;原告の書面では、どの書面で書いていますか。
阿部弁護士;第5次の訴状で書いている。
11:49 林さん(第5次原告);原発をなくす会の林です。今日の塩沢弁護士の話は、社会通念をどう考えるかで、分かりやすい内容だった。いま話題になっている、昨年の「ひまわり集会」でも取り上げた、東海村村長の村上さんの安全協定のこと、全国的に話題になっている。私は6月に茨城県に調査に入って、当局と意見交換をした。その中で、事前了解をするかしないかの判断のポイントは何かを聞いたら、我々は科学的・技術的なことは分からないが、住民が安心して避難できるかどうかは私たちの問われていることなので、事前了解をするかどうかは、それをもとに判断すると言っている。その意味では、科学的なことだけで判断するのは難しい。やはり住民がいかに安心できるかが大事だと。その点では、今日の主張と相通じるところがあった。視点は違っても広い意味でとらえていく必要があると思う。
裁判の役に立てるよう、原発をなくす会として、UPZ圏内プラスアルファくらいの当局に対して、避難計画の調査をしようと。県評議長を降りて、自治研究所の事務局長をやっている。そことタイアップして、住民が安心できるかどうかということで、いま調査をはじめようとしている。
宣伝ですが、2月10日13時半からアザレアの会議室で、原発なくす会の総会で、越路南行さんの講演を予定している。この一年間の規制委員会の審査状況の報告をしてもらえる。ぜひご参加ください。
11:54 掛川・斉藤さん;東海村の安全協定の話。浜岡原発のことで、4市協定の中で勉強会をやろうという話が出ている。1月14日に勉強会をやった。その内容を読ませてもらうと、プルサーマルの時、事前了解の話が出ていた。事前通報とか、中に入ってもいいのかとかの話や再稼働の話はなかった。東海村の話は出さないと、御前崎市は拒否したと。その後、1月14日に勉強会をやったということ。事前了解はプルサーマルについてあるではないかということで、自治体には判断する能力がないから、国に任せればどうだという話の内容だった。議事録も取り寄せると、そういう内容があって、4市協定の内容にはならなかったと。資料は御前崎市に言えば出て来ると思うが、福島の現実を見ると、南相馬とか、浪江とか、富岡とか、楢葉とか、ひどい被害が起こっている。双葉ではみんな逃げている。
11:58 清水さん(一次原告);御前崎の市議会の一般質問で、浜岡原発の西側にあるA17断層の質問をした。私たちは活断層だと見ている。県の有識者会議では活断層という評価をしている。一般質問をした時、議会運営委員会で「清水さんの活断層という発言は間違っている」として、改めて議会運営委員会に呼ばれた。そこに中電の人がいて、そこでやりとりをした。私は活断層だと。中電は活断層ではないと言っている。有識者会議では活断層という発言に、中電は反論せず。だから活断層だと言っている。御前崎の議運では中電は活断層ではないと言う。食い違っているが、もし分かる人いれば教えてほしい。
林(原発なくす会);これは規制委員会で昨年か6月の時、震源の基となる断層として確認されていて、活断層といっていいとなっている。
大橋(磐田);「社会通念」の質問。準備書面22ページの真ん中あたりに、今日の法廷の中でも塩沢弁護士が言われたことで「原子力の専門家は,過酷事故の確率を○万年に1回と計算することはできるかもしれない。しかし,社会通念の評価は」,云々といって、「司法(裁判所)こそが判断すべき問題である」と。一方で準備書面17ページ下段のところ「2.本件浜岡原発に求められるべき安全性の程度・レベルに付いての原告らの主張」の直前に「これまで原発に求められる安全性の程度・レベルを低くする意味合いで使われてきたこの「社会通念」の意味合いを,根本的に転換することが求められている。」としていて、その次の「2.」のところで、「確立された国際基準が求める重大事故の発生確率を10万年に一度程度にまで維持することが求められていると解釈することこそが,今日の『社会通念』である」とある。先ほどの22ページのところの「確率の問題だけではない」として「社会通念」の判断を司法はすべき問題を言っている。ここの関連をどう解釈すればいいのか、疑問に思った。
塩沢弁護士;安全性のレベルをどの程度まで高く設定するかどうかということ、そのことと、社会がどの程度の安全性のレベルを求めるかどうか。社会が求める安全性は、社会通念上どの程度の安全性が想定されているのか社会通念を使ってレベルの程度を言うが、このどちらにしろ、専門的知見を有する規制委員会の判断を尊重すればいいのだと、裁判所はそういうことについてよく分からないので、社会がどの程度のレベルの安全を求めるかも、科学者の判断にお任せしようと言うのはおかしいだろうと。それは、科学的な知見、原子工学的な知見、それはもとより他にあるかもしれないが、もう少し、国民が今どのくらいのレベルのものを求めるのか、人文科学的な総合的な判断であって、そういうものを無視して、裁判所が専門的な判断だからとして、そこから逃れてしまうのはよくないよと。社会通念は裁判官が判断すべきだと言っている。私たちは、一番基本的なところは、安全性のレベルを、限りなく絶対安全に近い、絶対的な安全を求めてしまうと実は科学的でなくなるので、限りなく絶対安全に近いところを求めることを17ページで言っていることだ。論理的な展開が少しややこしくて、書いていながら私も、どうまとめていけばいいのかと分からなくなるところもあった。
12:05 司会;質問者は今の説明でいいでしょうか。他に「社会通念」について、意見はありますか。
他に質問はありますか。別の件ですが、次回は7月1日とかなり間があく。今までは2~3か月ほどの間隔であったが、今回は5カ月も間が空く、この点はどう考えればいいか。
大橋弁護士;3月から4月で裁判長が代わるので、新しい裁判官にしっかりこれまでの書面をよく読んでもらう。そのための期間だと思ってください。もう一つ、弁護団も議論して、じっくり議論を戦わしてやろうという方針で行くことにした。早くやろうということではない。今回の書面でも触れていますが、裁判所はいまあまりいい流れではない。運動の力、市民の力で、社会的通念もいかようにも変わる。3・11の前に悪い判決を出した裁判官も、市民も原発は怖い、という思いで、それが社会通念だと。それで判決を書いてくれればいい。政治も絡んでくるが、その間、世論も運動を強めてほしい。原告も増やして、しっかりがんばってほしい。
12:10 野沢(磐田);いままでは中電はあまりしゃべらなくて、何を考えているのかと思っていたが、今日は話した。放射能が怖くない、大したことではないという話と、安全対策をしていますよと。原告の主張にはまともに反論しないで、あんな突っ拍子もないことを言う。何か中電のねらいは?
阿部弁護士;中電が準備書面を出して、簡単な説明するというのは今回初めてではなくて、何回か前からそういう対応を取っている。以前はこちらが何を書いてもほとんど反論してこなかったが、最近はこちらの書面に何回か反論してきている。今日は低線量被ばくについてと、口頭で述べた工事のことや規制委員会の審査報告を、裁判長の求めに応じて説明している。なぜ報告させているかと言うと、あの裁判官としては、規制委員会の審査が終わって、合格なら合格の結論が出るまでは審議を急がないという方針を持っている。そのために、どこまで進んでいるかを報告させている。規制委員会の判断が出る前に判決を出すことは可能だ。福井の仮処分も規制委員会の結論が出る前に出している。担当の樋口裁判官も審査が終わるまでの間に事故が起こればどうするのだとして、決定を書いた。ただ浜岡はいま止まっている。すぐには動かないだろうと裁判官は判断している。そういう裁判所は結構ある。最近では、大飯原発の裁判も規制委員会の判断が出るまでは判断をしないと。我々もすぐに結論を求めるのは時期尚早であろうと、じっくりやろうと考えている。実は東京高裁の控訴審の裁判、浜ネットの人たちがやっている裁判、これはずっと前から何も進んでいない。これ以上は進めないと、弁護団と裁判所の暗黙の了解。本庁の裁判も争点整理は終わっているが、また新たな争点について主張していて、いつ証人尋問に入るか、どうなるか分からない。
12:15塩沢弁護士;関連しての発言を。毎回みなさんが今日裁判に参加されていて、みなさんの中では原発が風化していないからこそここに参加されている。浜岡原発の存在を感じながら暮らしている県下の人たちは決して風化してはいない。そうはいっても国民の中に風化現状がじわりじわりと広がっている可能性はある。全国で闘われている原発訴訟で脱原発が実現できるわけではなくて、脱原発の大きな運動の中での一つが訴訟での闘いだ。井戸裁判官という、3・11前に原発を止めた元裁判官が弁護士活動をして、全国で活躍されている。原発訴訟は運動の結実点。訴訟をやることでいろんな運動がつながっていく一つの核だと言っている。だから、まわりを風化させない裁判のとりくみも必要だ。ではどうすればいいのか。運動するみなさんに考えてもらうしかないけれども、必要があれば、今日のような話も呼んでくれれば講師活動もしたい。ここで紹介したい本がある。「原発ゼロ、やればできる」(小泉純一郎・太田出版)が出ている。全国の原発訴訟の河合弁護士が分かりやすい本だと勧めている。こういう本で勉強会をやることも一つの方法だ。いま脱原発で小泉さんも頑張っている。みなさんがんばりましょう。
12:20阿部弁護士;期日が先になったこと、そんなにのんびりしていいのかと。今やっているのは本裁判。本裁判は仮に勝ったとしても、確定するまでは原発は止まらない。仮に一審で勝っても、中電は当然東京高裁に控訴する。高裁で勝っても最高裁までいくと。その間に原発が動く可能性はある。そういうことで、裁判としてはどうやっていくかというと、規制委員会がOK出しそうだと、それが近づいてきたら、仮処分という、すぐに原発が止まる、その申し立てをする。仮処分決定がされると、本裁判は置いといて、原発は止まってしまう。いまどこの本裁判をやっていて、動きそうだとなれば、仮処分の申し立て、仮処分の審議を先行させて、仮処分決定をもらうと。あちこちで出ているが、仮処分の決定と、即時抗告というやりとり。その間は、本裁判は止まっている。その点も頭に入れておいてほしい。
大橋弁護士;野沢さんの、なぜ中電はしゃべり始めたのか、の質問。前から我々は、被告の言い分を言うべきだと原告は求めていた。その方が法廷の活性化になる。今日はその場で議論すると面白いが、発言に時間の制限をしてくる。
12:24永井;はじめての傍聴。使用済み核燃料も限界。プールのひび割れ、取水口から水が入ってこない心配もある。そういうことも訴えてほしい。止まっていても危ない。首都圏への影響、その人たちも原告団に入ってくるといい。
鹿野;宣伝を。三上さんB4カラーのチラシを作っている。安い値段で印刷が可能。あちこちで注文を取っている。原自連の顧問、落日の原発、断末魔の悲鳴。非常によく分かる。これを普及するのもいい。
斉藤(掛川);一週間前まで掛川中央図書館で写真展を。中学生、高校生が土日に来て、いい感想が出ていた。親は中電に勤めているが、放射線問題で原発問題にとりくみたい。福島に見学に行きたい。母親も子連れで来て、こういうことなのかと。おじいさん、おばあさんも、福島はもう終わったと思っていたと。
12:28林弘文(会の代表);塩沢弁護士がすばらしい準備書面を書いていただいて、非常によかった。読みごたえがあった。一人でも多くの人に読んでほしい。この中で佐野弁護士が書いていた、樋口裁判官、昨年の6月ですか、勉強会での文章を送ってもらって、感激して読んだ。裁判官には2種類、原発は怖いと感じた裁判官は積極的判決、そうでない裁判官は否定的判決を書くという話。もう一つ。1月21日毎日新聞、原発特集で、東芝、三菱重工、日立の動向を書いている。それをもとに調べてみると、WHは健在だと思っていたら、アメリカからイギリスへ、そして東芝へと、そして左前に。日立 ももう限界だと会長が述べている。メーカーが悲鳴を上げている。背後には何があるか。やはり福島の事故の怖さがあり、対策費はものすごくかかる、もう限界だと。それから、市民運動は、静岡で、金曜アクション 343回となった。非常に元気だ、これからもみなさんと一緒にがんばりたい。
12:32司会;それでは、今後の準備書面のことに触れて頂いて、終わりにしたい。
阿部弁護士;さきほど、使用済み核燃料は原発が動いていなくても非常に危険性があるのではないかとの指摘がありましたが、このことも展開している。原発の論点はたくさんある。あらゆる論点を主張すると、裁判官は消化不良になるので、最終的には一番勝てる論点に絞っていくことが重要だと考えている。ここが重要だと思う論点の一つは、避難計画の問題。最近出た伊方原発の高松高裁の決定でも、不備があると論究していた。浜岡原発の場合どうなのか。UPZ圏内に90万人以上いる。本当に事故があった時に、計画通り避難できるのか、これまでも何回か主張してきたが、次回までに時間があるので、また具体的なリアルなところを書面化したい。それと今日の塩沢弁護士の書面で少し出ていたが、突き詰めると、原発違憲論も考えている。
塩沢弁護士;一つだけ追加します。次回、裁判官が代わって、新しい裁判官にも、弁論更新で、こう言ってきたが、こういう点を押さえてくれと。弁論の機会がある。原告の立場から発言できることも考えている。新しい展開の場だ。たくさんの方の参加をお願いします。
12:35林弘文(会の代表);フランスで使用済み核燃料がどうなっているかというと、パリの東部の研究所を使用済み燃料の貯蔵庫にするといって、フランスではいま、おおもめしているとのこと。
司会;いろいろご意見ありがとうございました。次回もいろいろご意見を出してください。
12:36終了
(文責・長坂)